見渡す場所にすべてある


母親は片膝の手術の経過も順調で、今は次の手術の準備としてリハビリテーション病棟に移っている。基本的に病棟なんだけれど、部屋は中央のリハビリ器具の置かれたスペースや食堂へと直に面していてあんまり病院という感じがしない。まあ、リハビリ施設だ。かといって「朝起きたら服に着替えて・・・」といった、ありがちに思えるような規則もない。パジャマでリハビリをしてもいいらしい。
おとつい様子を見に行った時にもだいぶ落ち着いていた。ちょっと変なことも言うのは、もう年齢が年齢なんだと思うと仕方がないんだろう。ただでさえ今までとは違う環境にいるんだし。あまり自分が苦しくなく人に迷惑をかけることがないのなら、それで僕も気が楽だ。ベッドサイドでは、洗濯物を洗ってきたものと交換するぐらいにして、部屋を出てミニベンチに腰掛け、テーブルに置かれた超豪華なお見舞いの花束を見ながらしばらく話をした。ちょうど共同で見れるテレビでWBCオランダ戦が始まるところで、そちらに向かう人も割といた。

もう仕事をやめて半年経つというのに、自分はこんな生活でいいんだろうかと思う。掃除をしたり食器を洗ったり、父親とごはんの用意をしたり洗濯したり。生活リズムは、完全に昼夜逆転というわけではないけれど半日くらい遅めにずれている。体力は落ちている。夜の眠りが浅いのか、夕方からも必ずしばらくの間寝る。
昨日は近場の用事があったので珍しく外に出て歩いた。幸い?近所の人に出会うこともなかった。開発が急に進んだ、昔は田んぼだった住宅街をまわって家に向かっていたら、興味のわく細い土の道をみつけたのでそこを通っていくと、桃の花やさざんか?や梅が同時に咲く、早春にふさわしい風景に出会えたので写真に撮ろうとバッグの中のiPhoneを探したら、そんな時に限って持ち出すのを忘れていた。なお歩いたら最後はよく知っている場所に出た。いよいよ家に近くなったら前から歩いてきたランドセルを背負った少年が「こんにちは」と声をかけてくれたので、そんなことがあるとは思わなかったから慌てて「こんにちは〜」とやっと返した。これは、この子だけのことなのか、今の子はそうして挨拶をするようにきちんと教育されているのか。ただ、悪い気はしなかった。
本当は毎日少しでも明るい間に外へ出て歩くだけでもすればいいのだろうけれど、なかなかそれが出来ない。これが、近くにちょっとした自然でもあって、樹々の間を歩くようなことなら気持ちも落ち着くのかも知れないけれど、ほとんど家に埋め尽くされたこの辺りを歩いてもどこか怪訝に思われるんじゃないかとか、知っている人に出会ってなぜこんな時間に歩いているんだとか不思議に思われるのも面倒くさくていやな感じがする。
去年から家の改装を予定しているのに本来の部分がまったく進まないので「大工さんも来ないし、うちもやる気がないのならもう僕はどっちでもええで」と、父にやや感情的になった。父親は自分が関わる地元の催しの準備と後片付けに日々時間を使っていて、家のことなどあまり気にしていないように思えたので。僕はといえば、できれば母親が帰ってくる頃には完成とはいかないまでもある程度改装が進んでいることを期待していたから、昨日はちょっとその思いが強く出た。父親は、かわいそうに、何も言わずにベッドへ横になってしまった。お金がないので出来る部分は自分たちで(父に指図を受けて自分で)やるつもりで、それを生活リズムや体力取り戻しの機会にもしたいと思っているから、時期的に大工仕事が難しいのはわかってはいても焦りの気持ちが出てくる。
今日はその、改装を予定している場所に置いてあった小さなタンスやカラーボックスなんかを二階に移動した。これでほぼ重い物は移動できた。ついでにしばらく前から自室に放ってあった、やはり階下では邪魔なので持って上がった両親の衣服を整理して棚の上に上げた。この際、サイズも合わず古くなり今はまったく着ていないものは処分することにしてゴミ袋に入れたら2つ出来た。これはちょっとずつ捨てていくことにしようと思う。
うちは服の管理が全員へたで、両親も、親戚から送ってもらったものなんかもたくさんあるのに、結局毎年、毎シーズン、おんなじものを着ている。その理由が「新しいからもったいない」だったりするのが不思議で仕方がない。ただ僕も着れるものをずっと衣装ケースに入れっぱなしで忘れたまま、毎シーズン同じものを着る状態だったので何か無駄だなと思って、ある時、上着は基本すべてハンガーで吊るしていつでも見渡せるようにしたらどうだろうと思い立ち、以来そうしている。だから冬でも半袖のシャツが目の前のハンガーにずらっとぶら下がっているし、夏でも分厚いダウンジャケットや毛糸の服がそのまま吊り下っている。こんなことをすると当然場所をとるけれど、季節の変わり目に「衣替え」だからとケースに虫除けを入れながら服を入れ替えるという面倒が要らないし、第一、だいたいの衣服が目に見えていると安心できる。
僕は、物を整理するのは本当は好きだけれども、その理想が高すぎてなかなか手につかない場合が多い。「あるべきものがあるべき所にある」というのが理想なんだけれど、そこに一度にたどり着こうとしたがるので結局片付かずに不満だけが溜まりやすい。かといって、いったん整理を始めると際限なく片付け出して体力を使い果たしてしまう。たぶん僕は、出来るだけモノのない、見通しのいい環境に安心するんだろうと思う。自分の頭の容量を越えない範囲でモノが身の回りにあるというような環境。
このことは仕事環境について言えば、今から考えると、あの広いフロアで様々な人の様々な声が一度に聞こえ、電話がよく鳴り、その対応が耳に入ってきて、視覚的にも開けているのですべての部署が見渡せてしまう・・・という状態は、自分にはそれだけで負担だった。
最近、発達障害についての番組は増えている。ただ、どれを見ても環境調整がばっちりだったりその場の実際を見守ってくれる人が職場にいたりと、「模範的」な例が取り上げられていることが多い。だいたいが都会の大企業の特例子会社だったり。そんなもの、このあたりにはないし。
収入が別にあるのなら、あまり細かいことを要求されないのであれば身の周りのことは仕事に比べればはるかに楽だ。買い物は車で少し離れたお店に行けばできるし、ゴミ出しの練習も少しずつやっている。
最も今のように両親の健康状態が不安に思えて仕方がない時には、仕事でもしていて、それに悩んだり打ち込んだりしている方がこころには負担が少ない気がする。

見渡す場所にすべてある” への2件のフィードバック

  1. 「もう仕事をやめて半年経つ」という文章に驚いております。私は、作業所、休み休み今も、続けております。KAZUYAさんを、ご存じだという、身障のNさんや、Mさんと一緒に精神障害の私も、共同作業しています。もし、このコメントが、ご迷惑でしたら、ごめんなさい。伝えたかったのは、Nさん、Mさんが、作業所で仲よくしてくださっているということが、うれしかったので送信しました。

  2. 驚かせてすいません。Nさん、Mさんもお元気そうで何よりです。
    お仕事も長く続けておいでになると大変なこともたくさんおありかと思います。
    「うれしかった」という言葉を僕にも分けて頂けたこと、それがうれしいです。
    どうか今後もご無理のないように続けて下さいね。

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