先月はいつにも増して調子が良くなかった。特に母親の状態が以前よりも明らかに落ちたと感じたところから、「これは少しでも早く専門のお医者さんに診てもらう方がいい」と思い、風邪症状も見られたのでいつも通っている診療所にお願いをして予約なしで診察をしてもらったら、やはり思ったよりもわるいようですぐに病院への紹介状を書いてもらって翌日に診てもらいに行った。その後幾度かの通院と検査が続き、原因がわかったところで「自分は何のためにこれまでやってきたんだろう。これから何を頼りに(楽しみに)思いながら生きていけばいいんだろう」というような漠然とした不安や、かなり具体的なことたちについてのおそれが一度にやってきて、両親と長く話をし、その後、なんだかがっくりときてしばらく寝込んでしまった。
月末の誕生日、今年は何もない(いつも何もないけれど)と思っていたら、思いがけずお祝いをしてくれる人が現れて外に連れ出してもらえた。外はいつの間にかもう春の気配が濃くなっていた。重いカメラを持ち出す気力がやはり湧かないので、コンパクトカメラをつかった。仕事の合間なのか、スマートフォンで桜の花の近くまで寄って撮っている、スーツ姿の若い人なんかもいた。
僕はiPhoneをやめた。老眼が進んでいてあの画面サイズで小さなサイトの文字なんかを追うことがつらくなってきたのと、スマートフォンはデータ通信が必然的に多くなるので月々の費用が今の自分の身の丈に合わなくなっていることもあり、6年程前に解約をしたものの本体だけ持っていたフューチャーフォン(ガラケー)へと携帯を戻した。それで特になんの不便も感じることはない。むしろ以前の携帯の方が電池が長く保つし、使う事は少ないけれどテレビ機能も付いているのでむしろ非常時には役立つ場面があるかも知れない。iPhoneを手放して惜しいなと一番思う点は、やはりカメラ機能だ。あの小さなレンズでこうしたコンパクトデジタルカメラと変わらないような写真が撮れた。
でも、周囲に光が十分あれば、このカメラもわるくない。空の青は深く写るし、曇り空の下の水面を撮ったときにはあまり映りが良くないように思ったので期待はしていなかったのだけれど、この日は川の流れやそこに照る陽の光がよく写ったように思った。
むしろ一眼レフカメラなら、こんな場面を撮ると水の上の「光の玉」の周囲が紫色に写ってしまったりすることが割とある(なんでそうなるのかよくわからない。)のだけれど、この時にはほぼ見た目のとおりに、水の上で光が踊っているような感じで写ることに、不思議な感じを覚えながらおもしろくその風景を見た。
いろんなことが整理できなくて身動きがとれない時もあり、今は不安だけれど、ともかく前に進んでいくしかないんだなと思う。そしてできれば今年、あと一度ぐらい散る前の桜をよく見ておきたいと思う。