居ても良いということ


ここのところ、久しぶりに発達の相談員さんとお話ができたり、少し間があいていた先生とのお話もできたりして、単調な生活に少し変化がつき始めている。先生とは、つい最近になって、自分が長くおさえていた「記憶の蓋」がなぜか今になって開いてきているように感じて気持ちが良くないことを話したら、「ホッとできたんじゃないでしょうか」という、意外なお答えが返ってきた。発達の相談員さんと久しぶりにお会いできて、自分の思ってきたことを十分話せたこと。それで安心感が生まれたので逆に我慢して抑えてきた部分が出て来たのではないでしょうかということだった。「入院して逆に「悪くなる」人もいますよ」とも。そう言われてみると、本当にそういう感覚に近いのかも知れない。もうだいぶ前のことになるそれらのことを、「いろいろなことがあったんですね」と診察の最後におっしゃったのが印象に残った。
家での作業は、昨日、外に持ち出してノートブックでやってみたら、いつもと環境が違うのがよかったのか、夜には進行具合をご依頼を受けた方にご報告できるぐらいにまで形ができた。あくまで形ができただけでこれからが本当の作業になるけれど、写真の配置やらでなやんでいたのがなんとか「にぎやかになって良くなりましたね」と評価して頂けるあたりまで来た。

今度の作業はそれほどの収入にはならないかも知れない。けれども自分にとって今はそのことより、少しでもやったことを評価していただける人の存在が、人と関わることの怖さは依然としてあるけれども、その人たちとの関わりを持てる事の方が大切なんじゃないかと思う。「社会」というと足がすくんでしまうけれども、この小さなことだって、自分と社会との接点であることには違いがない。それで、結果が思うようなことになるかどうかはわからないけれども、まずは丁寧に作業を進めていこうと思う。
この間から「評価」について考えている。自分が自分についてくだすそれ。人から見た自分についてのそれ。「まっすぐな木」として育ってこなかった自分は前者が不確かで不安定になっている。後者は、本来ならその時その場面でさまざまに変化するもので、自分では推し量ることしかできないものだけれど、たいてい「低い」ものとして捉えることが多い。子供の頃からまれに人から誉められたりすると逆に居心地のわるくなることが多かった。むしろ相手にむかってそれを一生懸命「あなたは僕を誤解している」という風に、否定したりしていた。それは大人になっても変わることがなかった。
そして今、実は「評価」ではなく、上っ面でもいいから優しく接してほしいと思ったり、にこにこと愛想良く自分に対してほしい、そういう場がないものだろうか・・・と願っている自分を発見したりしている。