切り離された日


もう3年ほど前になるだろうか、久しぶりに年末年始に雪が積もった。ちょうど両親がふたりとも風邪で寝込んでしまい、冷蔵庫に食べるものも少なく、薬や飲み物もなかったのでタイヤにチェーンを付けて年初はやくから営業をしていた大きなショッピングセンターに買い物へ出かけた。今年は幸い今までのところ雪が降る事も少ないし、積もることもない。今日、弟たちが来たのであちらの雪の様子を尋ねたら、こちらとは違って積もるまで降ったらしい。この辺りも、子供の頃には確かに雪はもっと降ったように思う。
幼い頃住んでいた社宅は近所の中学校の門からまっすぐ降りたところにあって車の通りもめったにない狭い道に沿ってあった。雪の積もった日には父親が、牛乳瓶を入れる木箱の下に平行に板を取り付けて作ってくれた「そり」に乗り、引っ張ってもらった。雪だるまを作って母親の言うとおりナンテンの赤い実を目鼻にして埋めた。
近所の年齢の違う子らのあつまりに入れてもらって、その子たちがボールを寺の塀に投げつけて遊ぶのを見たり、シロツメクサの茎をむいて互いに絡ませながらどちらが早く切れてしまうかを競ったり、小さなお社の木にとまる蝉を捕まえに行ったり、駒を回したりしていた。上隣の家に仲の良かった女の子がいて遊びにいくと、まだ若いお母さんがその女の子の弟か妹だったのだろう赤ちゃんにおっぱいをあげていたりした。ある時僕がその様子をぼっと見ていたら、お母さんはそれに気づいてくるっと後ろ向きになってしまうことがあって、その時に「あれ、なにか自分がわるいことをしたんだろうか」と思ったのを覚えている。
もう少し上には原っぱがあって、一番の仲良しだった下隣の男の子が飼っていたうさぎをそこで放していたような記憶があるような、ないような。原っぱの上にはお姉さんが、やはり社宅のような家に住んでいて、ある時その家まで行くと、当時流行っていた個人用のサウナカプセルみたいなものにすっぽりと彼女がおさまっていたのを見た記憶があるのだけれど、今思うと小さな体で大人用のそうした機器にうまく入れたのだろうかという疑問がわいてくる。けれども確かにその光景は記憶に残っていて、「何をしているの?」と尋ねたような気がする。

自分が住んでいた同じ社宅にやはり相手をしてくれるお姉さんがいて、「この子は足に大きな痣があって・・」とご両親が話されるのを父親と聞いていたことがある。そして確かにそれはあったけれどもお姉さんは特別それが困ったことで恥ずかしいことだという風を見せることもなかった。一度、部屋に入れてもらったら大きなピアノがおいてあった。夕焼けのまぶしい光がカーテンの隙間から差し込んで部屋全体が赤く染まっているように感じられた。
その隣には少し年の離れたお兄さんがいて、僕にとてもよく接してくれた。あるとき、「グーを作ってみ」と言われてそうしたら、お兄さんがその僕のグーを包むように自分の手の平でおおって、「さあ、手を開いてみ」というので一生懸命開こうとしたけれど、どうしても出来なかった。これは今から思うと年の差を考えなくてもかなり不利な状況だった。一度、同じ社宅の人の車のリアガラスが粉々に割れているのを見たことがあり、どうやらそれは、その、僕に良くしてくれるお兄さんが投げた石が偶然当たってそうなったらしいということを耳にした時に、僕はそのお兄さんのことをとても気の毒におもった。
そうして遊んでくれていた当時の子供たちの中で、僕は一番年が下だった。小学校に入り立ての頃、三輪車に乗りながら、僕が学校の廊下を走ったことを話したら「ろうかでなくて、ろ・う・か」と何度も言われるので、「なんで間違ってないのに同じ事を何度も言われるんだろう?」と不可解だった。しまいには家の前の物干し竿で洗濯物を干していた母親に向かって僕の発話の間違いを指摘されたりするので、その時にはまったく不本意だったけれど、ある時から自分が「ろうか」ではなく、「どうか」と言っていることに気がついて、皆が必死にそれを修正してくれようとしていたのだと確かにわかった。納得した。
お祭りの時期になると、ポンプを押せばぴょんと飛ぶカエルのおもちゃと、ヤドカリを買って来た。下隣の男の子の家族といっしょに屋台を見に行ったときはあまり楽しくなかった。「綿菓子を食べる?」とその子のお母さんに尋ねられて、「綿菓子とりんご飴は歯がわるくなるから食べたらあかんと(母親に)言われているし」と断ったら、不思議な顔をされた。けれども自分自身、あまりそれらに興味がなかった。
2月の節分の日、社宅前のお寺で、集まった人たちにお餅を塀の上から投げてふるまう行事があった夜、たまたま走って来た車のトランクを友達の何人かが押すのを見て、「僕もやらないと」と思って最後にそうしたら、僕だけおじさんに呼ばれて、「今、車を押してたやろう。あんなことしたら、危ないやないか!」とこわい顔で怒られた。あの時から自分はこの世界から切り離された気がした。確かに、あの時だった。今も不意におそってくる悲哀と、この社会に対する恐れは、あの夜家に帰ってからもひとり感じ続けていた悲しさと確かにつながっている。あのおじさんがわるいわけじゃなかったのだろうけれど、その後、僕の生はそれまでの平和と安心の中にあったものとはまったく違うものになった。
このことはもう幾度となく書いているし、何年も前から、何度も何度も主治医に話したことでもある。
ゆうべ、まだ書いていない年賀状をパソコンで作ろうとしたら寝てしまい、夜中に起きてそれを作ったりしていたら世があけてしまった。数日でまたカウンセリングがあるのに、生活リズムは乱れている。
Macの電源不調はこの年末年始あまり見られず、不思議と調子が戻っている・・・と思っていたら、スリープしても復帰してこない不具合がまた起きた。やるべき作業に手がつけられてないし意欲がわいてこない。今回はパスをしたい気持ちまで出て来ているが、そういう訳にもいかないので何か楽しみを見つけながらやっていけたらいいと思う。いったんとりかかると結構集中してしまうのだけどな。もっと自分に能力があったらなと最近よく思う。どうも中途半端で。いろいろと中途半端な自分だ。