生きていく術

僕の生活はこのままでいくともうじり貧だ。このままぎりぎりのところまでいって、あとは行政が何か手を差し伸べてくれるのかくれないのかを待つしかない。けれども親のことは、社会的手続きや病院への付き添いや病状の進行をみていくこと、介護の連絡やは必ずやらないと前には進んで行かない。やがては最後に関わることもある。それを放棄するわけにもいかない。
ただ、自分の先行きがじり貧だということがわかっていながら、それらを同時に進めて行くということに、どうしても疲れた。できることなら、親のことがすんだら自分はもういなくなりたい。

若い頃はまだ仕事もできた。誰にもそうは考えてもらえないのかも知れないけれど、たまたま自分が精神科に通院していたり作業所に通った経験があったこともあって家族会活動にも参加し、それに生き甲斐を見いだしていた時期もあった。あの頃はまだ力があり、新しく自分を生き直すんだという気概もあった。それが、それを仕事として考えようと思い出した日から周りからの目は明らかに変化した。新たに立ち上げようとする作業所にボランティアとして加わりたいと話してみた時も、皆の前で叱責を受けた。「君は何を言っているんだ。いつまでボランティアをしようと言うんだ。」大勢の家族の前で怒られた。「開所するにあたってひとりひとりがどんな気持ちでいるかを尋ねたい」と問われたから自分の気持ちをそのまま話した。けれどそれがあんな叱責を受けることになるとは思わなかった。ひとりのお母さんが間に入ってとりなしてくれたのを覚えている。

開所前、資金集めに自分の病院にもビラを置かせてもらおうと足を運んだ。すると既存の作業所の運営委員を引き受けられていた先生から自分がいつも診察を受けている部屋で叱責を受けた。「君らはどうしてあいさつに来ないんだ。誰が責任者なんだ。」
僕は、自分がいつも主治医に自分の悩みを話してはそれをフォローして頂いている部屋でそのような言葉を別の先生から受けた記憶を今でも消せないでいる。ショックだった。作業所開設のお知らせは既にしていたし、設立のために会を開いた時にもその作業所の職員さん宛にお伝えもしていた。その前後、父親が倒れて先生に院内で出会うたびに、僕は気を遣った。なんとか元の僕に対する精神状態に戻ってもらいたいと思って必死だった。けれど最後まであの時の叱責についてまた話し合う機会はなかったし、僕の中に「お前がわるいのだ」と先生から言われたという記憶は残った。

作業所は結局、大きな心の傷を作って離れた。人を信じる事が難しくなり、こわくなった。病院の待ち合いで別のご家族から怒られたこともある。でも僕はけして「義理」でもなく、自分がその場にいた時には、どなたかの不幸があればその最後には出向いた。けれどその後のことでそうしないのはどうしてなのかと怒られたときには、自分はどう答えたらよいのかわからなかった。そして人との付き合いというのは、いったいどこまで必ずやり遂げなければ・・・それが自分のこころの状態がわるい時にも、相手から叱責の目で見られているような時でも・・・しないといけないのかということを、自分の診察を待ちながら怒られている時に思っていた。

けれど、そうして僕を叱責して来られた方々には今はその溜飲を下げられる絶好の機会だ。僕にはもう、得られているものはほとんどない。仕事をすること、家族と何気ない健康な日々を過ごすこと、人生に目標をもつこと、先々に開けて行く労苦を、それをも生き甲斐にして抱え持って行くこと・・・もう、そんな機会は僕にはない。僕の手のうちに残っているのは、親の生活能力がこれ以上低下していかないように(それは必ず無理なことではあるのだけれど。)介護や医療と連絡をとることとそれに立ち会うこと。最後までみていくこと。けれどそれにだいぶ疲れている。

最初に自分自身の障害者手帳を受け取った時、その説明書きに自分自身のこともそうだけれども家族、親の介護などで困ったら連絡をということが書かれていたので、さっそく、その頃ちょうど背骨を圧迫骨折して日常生活能力が低下していた母親のことについて相談をしたところから介護とのおつきあいが始まった。あれから、もう何度介護関連で連絡を取り合い、時にはこちらからお願いをし、必要な処置をとってもらうまでの手続きをしたか知れない。それは親が悪いわけではない。ここ数年、今度は父の具合がわるくなると医療から介護へとまた自分が連絡をとり説明を聞く範囲が広がった。診察室へは両親会わせてもう何百回も出入りした。周りを見ると平日のお昼に息子に付き添われて病院に来ている人はあまりいなさそうに見えた。たいてい同じ年頃のお連れ合いか、あまりこの呼び方は好きではないけれど「お嫁さん」と診察に来られている方が多くおいでのように見えた。うちはそれが不可能だった。今、父一人、診療所や病院で一連の手続きを済ませて診察や検査を受けて来ることはもう絶対に不可能だし本人もそう話す。

弟には一度、父の手術前の説明を聞くことと、手術中の待機を頼んだことがある。それをしてくれた時にはずいぶん助かった気持ちになった。ただ、その時以外はふだんの診察、その他の手術の時を含めてそういう頼み事をすることができなかった。弟には弟の生活があり家族がある。もうこちらへ帰って来ても母親に話をすることはなくなった。僕はそれをどうしてだろうと思うことがあったけれど、自分が逆の立場ならもしかするとそのような心持ちになるのかも知れないと思った。気持ちが、自分の家族、連れ合いの家族の方へと重心が移ることになるのかも知れないと考えた。考えて、それなら拙いけれど自分が親のことについて、その生をみていくことが大切なのだろうと思った。弟がまたこの両親について振り返るのは、それらの最後にあたってのことになるだろうと今は思っている。

僕にはこの社会集団に適応する能力が足りないし、それは小さな頃からだった。ただ、それがどうしてなのか、その本質がわかったのは40代も半ばになってからのことになった。僕はその時から、「ああ、原因はそれだったのか」と安堵するのではなしに、それなら、自分がこれから生きて行くためにどう糧を得続けていけばいいのか、衰えて行く親をどうみていけばいいのか、その力が自分には足りないということを感じる機会にしてしまった。学校生活がどうしてうまくいかなかったのか。本来なら「青春」として今頃懐かしさとともに楽しく、少し物悲しく思い出されてもいいはずのその時期を、僕は今でも生々しく傷ついて振り返る。その本質がこれだったのかと思うと、そしてそれがこれからもずっと続くのかと思うと、僕には懐かしく振り返る過去もないし、少しの希望を持って生きる未来もない。

人には言われる。父をデイサービスに出したあたりから、その言動がにぶくなったと。けれど、それなら他にどんな選択肢があるのだろうか。介護サービスが使えない施設に高額な費用を出して送り出すことだろうか。それとも何もしないで父のそれまでの、不具合も含み込んでこれからもそれがいつ突出して出るのかもわからない可能性を抱えながら、やはりこれまで通り過ごさせることだろうか。他の施設を選ばなかったことがわるいのだろうか。しかしその試みもした。その時本人が調子をくずして、その後本人も現状でかまわないというのでそのまま今の施設に通わせている。それをも「(父親を)わるくしている原因だ」と言われたら、もう僕はどうしたらいいのかわからない。

「もっと困らせてやろう」とも言われる。夏に具合をわるくするだろうと。夏は、ここ数年いい思い出がほぼない。確かに父親は夏に具合をわるくした。ほとんど水分をとらないのに炎天下で作業をして倒れる。それは老化でか、当人の精神的な理由によるものかわからないけれども、自分の乾き、からだの疲れ、暑さを感じ取る能力が弱っているからだ。なのでそれだけ周囲が注意深く見守っていなくてはいけないのだけれど、父の予想を超える動きを察知してそれを止めるという力も今の僕にはない。何より心細く思うのは、もう父に対して自分の困りごとを相談しても、ほとんどまともな答えは返って来ないということで、それを感じてから、もう、地域生活でほとんどひきこもりがちな僕や母親の分を支えてきてくれた父に対して、今度はそのノウハウを伝えてもらう、あるいは今後なんらかの配慮を周囲にしてもらうために動いてもらうことを期待することはしなくなった。僕は今はもう父に何かを問いかけることはほとんどしない。そうして父の反応を期待することをほぼあきらめた。そして今は、父が自分から声を発してくれるその機会を大事に思っている。

以前に、生きて行く上での「財産」というのは、資産というひとつだけのものではないというようなことを書いたつもりでいるのだけれど、社会から現実的に問われるのは狭い意味での資産の方であることは間違いはない。若い頃に興味を引かれてそれがいっときは生きて行く楽しみであり力にもなっていたという意味での「財産」など、今になってみればほぼ意味がないのかも知れない。健康なからだであり、仕事こそが「財産」といえるものであって、僕の言うようなことは世間的には歯牙にもかけられないことなのだろう。その財産がなく、健康もなく、うつむいてしまうことも許されないのだとしたら、僕には生きて行く術が見当たらない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です