ふてきかく人間

早咲きの桜02

去年、この早咲きの桜を撮った頃は父親の具合が悪くなって病院を行き来していた。
2月の後半は依頼作業と父親の体の心配と、自分の心配事が重なって気分が重かった。

作業の方は、ひとつは結果が出てオーケーをもらえた。でも自分としてはなんだか納得がいっていない。もっと工夫をして見栄えのするものを作りたいのになあと思う。親に言わせるとそんなことを考える必要はないのだという。これまでずっと同じ体裁できたものを変えるのはかえってよくないのではないかと。朝日新聞も毎日新聞もずっとこれまで同じ体裁を保っているじゃないかと。そんな全国的メディアと比べてもと思ってしまう。この作業のお金は11年落ちの軽自動車の車検代に消えてしまう。

親の部屋はほぼ一日中、自分の部屋も寝るときにエアコンをかけて暖めているので1月の電気代はすごいだろうことは覚悟していたけれど、果たしてすごかった。3万円を超えていた。この分だと2月分はもっとすごいことになるだろう。

親の部屋のエアコンの温度を上げるほどに異音が大きくなっていたのをずっと放っておいたのが、親も眠りづらいらしかったのでとうとう修理を頼んだら、内部のファンが部分的に欠けていて回転軸がぶれていたのが原因だったのと(それは去年だったか、自分がエアコンを掃除していてあやまって欠けさせたものだった。)、本体の設定で「ひかえめ」という項目を「強く部屋を暖めたいから」という理由で切っていたら、それは暖かくなるまでの出力をおさえるもので、暖かくなったら関係がないし、「ひかえめ」をオンにしておいたら電気代が半分程度になるとサービスの人に言われて、なんでもっと説明書を読んでそうしておかなかったんだろうと後悔した。

それにフィルターを自動清掃に任せておいたら細かい埃がびっしりついたままになっていてそれを指摘されてすぐ掃除したら、内部のファンの交換ともあいまって全体に音が静かになり、異音もまったくしなくなった。温度設定を低めにしておいても部屋がよく暖まるようになった。こんなことなら去年、異音がし始めたときにすぐ修理を頼んでおけばよかった。修理代1万7千円。これは家から出してもらえるんだろうか。

もうひとつの作業の方は週明けに結果が出るので、それがどうなるか、とても心配している。失敗していたら何万という負担を依頼先にまたかけることになると思うので、自分にとってはかなりプレッシャーになっている。失敗していたら半分は自分の負担でやり直しということにでもしてもらわないと格好がつかないなあと思う。これは有償ボランティアでやっているのでそのあたりの関係はどうなるんだろうと今さら思っている。最初にもっと具体的に確認しておけばよかった。


この間の診察で先生が、「作業をしてその結果を皆に見られると思うと、ちょっとうれしいですよね」と言って下さったのだけれど、その時は、「はい、まあ・・・」と苦笑いしながら答えたのだけれど、ほんとうのところはそんなにうれしくは思っていないことがだんだんとわかってきて自分にがっかりする。

あんまり「うれしい」「楽しい」と思うことがない。小さなことがひどく気持ちにこたえる。この間、知り合いとフードコートみたいなところへ行って、その時には周りの音のうるささには我慢できたのだけれど、味を少しもおいしいと感じなかった。価格が高いなあと思っていた。付いていたアイスティーの甘さだけは感じた。食べ終わって買ったお店に食器を返しに行ったつもりが、返却口にトレーごと置いた途端に店員さんから「おきゃくさん、おきゃくさん、それ、ちがいますちがいます!」と不快そうに、早口で言われて、自分が間違って隣の店の返却口に返そうとしていたのがわかった。僕はぱっと目に付いた似たような場所があったから普通にトレーを返したつもりだったのに、それが間違っていて、おまけに店員さんから強く叱責された気がして、そのことでずいぶん傷ついた。涙が出るくらいに。

人からしたら「なんだそれだけのことか」ということの積み重なりで、小さな頃からずいぶんと傷ついてきた。それはそんなうっかりミスが原因になることが多かった。この間支援員さんとのお話で、自分がある状況に置かれたときに見渡している範囲の狭さということを話題にしたのだけれど、この間のトレーの返し間違いもそれに類するものだった。あれは自分の障害特性だと思うのだけれど、いったいこの世界のどれだけの人が、そんな「小さなこと」を障害として受け止めてくれるだろうか。

僕は小さな頃から自分のうっかりミス・失敗を、時に怒られ時に笑われ(それはからかいばかりのものではなかったのかも知れないけれど。)ずっと生きてきた。その積み重ねは僕の心にずいぶんとダメージを与えた。この社会は自分のような人間がやっていくには適していないのだと思う理由のひとつにもなっている。けれどその一つ一つを見れば、「そんなことが障害なものか」と言われる類いのことでもある。だから自分でも自分を障害者だと自認するのを常に申し訳なく思う。けれど生活上の支障は確かに感じることが多い。人からは「障害者とは見えない」と言われ続けてきて、けれど自分は困っている。

ここのところあんまり眠れない。ひとつは父親と自分の生活リズムが違っているのを、朝、寒い中出て行く父親を送り届けたり迎えに行ったりしないといけないことがあって、遅くに寝て無理して早くに起きて、ということをしていたら昼間に寝ればいいやと思っていたのが昼間にあんまり眠れなくなった。そのまま夕方父親を迎えに行って買い物にでかけたり(ひとりで買い物に行けることが少ない。)犬の散歩に行ったりしているうちに、生活リズムがわけのわからないことになって眠りづらくなった。この前は頓服を飲んでふだん飲んでいる薬も倍飲んでみたけれど、眠りづらいのは変わりがなかった。

昼間はもともと起きているのがしんどい。時々犬を散歩に連れ出すのも、なるべく人の少ない道を選んで隠れるように行く。このあたり、家の新築が続いていて、これだけの人が家族や家のローンのためにがんばって仕事をしているんだなあと思うと、昼間うろうろひとりでしている自分が情けなくなってくる。それと、昼間は音がうるさい。もともと古い建物は防音ができていないので朝の通勤時間帯には車の通る音がうるさくて仕方ないし、昼間はどこかで工事をしていたり人の気配がやっぱりするのが気になる。

こんな時、Macの調子も急にわるくなる。今日もこの文章を書こうとしたらマウスの接続が切れた。仕方なく有線のマウスをキーボードのUSBにつないだのにそれもまったく反応しない。もしかするとキーボードのUSB端子もデバイスを認識できなくなっている?と思ったら果たしてそうだった。別の端子は生きていたのでキーボードを刺し直して検索をかけたらPRAMクリアをすると直ると書いてあるサイトがあったので、だめもとで電源を切って再度、コマンドキーとオプションキーとPとRキーを同時押ししながら電源を入れ直したら、BluetoothもUSBもどちらも復活した。人間の調子がわるいと機械もそれに合わせるようにどこかおかしくなる。

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