「運」って生きやすさのことだと改めて思う

見下ろす流れ01

最近、外との関わりがまた少し出て来るようになってきました。自分がひきこもっているのに外から働きかけがあるというのはありがたいことです。ひとつには自分がそれを求めたこともきっかけにはなっていますが、一方で依頼作業は今年も頂けているし、もう一方の自分から働きかけたほうは、出て行って「到底続かない」ということもなさそうな感じに、今のところなっています。嫌なことは断っても許してもらえているし、先生もそうすることが正しいと言ってくれます。

ただ、動くのにちょっとエネルギーが足りないことも事実です。第一に、いや第一かどうかはわかりませんが、「寒さ・暑さ」が苦手です。一番好きな時期は冬も終わりに近づいて寒さもだいぶやわらぎ、陽の光が春のそれに近く、強くなってくる時です。まだいっせいに植物たちが芽吹き始めるというには少し早い。けれども水はぬるんで陽射しは春のそれに近くなっている。そういう微妙な時期、とても短い期間ではあるのですが、その頃合いが一番からだにも心にも負担が少ない気がします。自分がそういう時期に生まれたからかも知れません。

書いたかな。書いたような気がするけれどいいことなのでここでも書くと、今年おみくじを引いたら大吉でした。大吉。なんといういい響きでしょう。ここ数年、いや数十年、毎年おみくじを引くわけではないけれども、この運気にあたった記憶がもうありません。よくて末吉とか小吉とか。もっとわるいものももちろんありました。それが今年は大吉。
周囲の状況を見渡せば、「本当に?」と思わないこともありませんが、ここはひとつ、信じてみることにしようかと思います。

というのも、僕は子供の頃からくじ運というものがまったく良くありませんでした。小学校の頃、弟といっしょに「あてもの」なんかをしても、弟にはいいものが当たるのに僕ははずれ。ある時、いっしょにいた今は亡き母方の祖母が、「あんた、もういっぺんやってみるか」ととても同情的に話しかけてくれたのを今でも覚えています。「いや、もういい」と照れ隠しで強がって答えたことも覚えています。こころの中では泣きそうだったのに。

雑誌の懸賞で弟には一等の顕微鏡がポンと当たるのに、僕にはいっさい何も当たった試しがなかった。同じように毎月とってもらっていた学習誌(今でもあるんだろうか。)の懸賞でした。弟は高校にもポンと合格するのに僕は不合格。試験の時に真後ろにずっと監督の先生に立たれたのには参りました。それも気になって問題に集中できなかった。まあ、もともと「あんたでは無理だ」と言われていたのですけどね。けれど周りの環境を変えたいという思いが強くてのやむを得ない選択ではあったのです。

もっと根本的なことを言えば、自分が集団の中で感じる不安感、周囲と隔絶されたような感じ、関わりなど到底もてないあの感じを誰かによく聞いてもらいたかった。今では持ち回りかも知れないけれど各中学校にスクールカウンセラーの配置があるようです。けれど僕が中学生だった当時はそんな存在はありうべくもなかった。全部「自己責任」です。友達ができないのも、関わりがとれなくて、いじめられてしんどいのも全部「自己責任」。逆に先生からは「勉強だけでなく、もっとクラスの活動にも積極的に参加しましょう」などとはがきが送られてくる始末。いや、実際そうしたい。そうしたかったんだけれどもなぜかできなかったんですね。それがどうしてできなかったのかは、その後30年経ってから「どうやらこれがその原因だったらしい」とわかるのですが。

人生のあり方を決めるのに、「運」という得体の知れないものは大きく関わっていると思うようになりました。別にわけのわからない宗教にかぶれたわけではないけれど、「運」というのは確かにあるに違いないと、子供の頃からの体験なんかを通しても感じるようになった。そしていつのまにか自分には運がない、人としてツイていないと思い込むようになりました。けれど同時に、自分が子供の頃からもっていた今の社会に適合しづらい障害特性がとても薄かったとしたら、あるいはなかったとしたら、もっといえばそれがあっても補ってくれる社会的仕組みがあったとしたら、たぶん、僕の運もずっとよかったんだろうと思います。それだけ「運」を支えている、人として置かれた条件も上がるわけなので。身軽になって、周囲とも合わせやすくなれば「運」も上がる。そんなものだったんだろうと思います。「運」や「ツキ」というのは「生きやすさ」と言い換えてもいいのかも知れない。

実際、イラクのファルージャやシリアのアレッポで生きている子ども達、大人たちは、それでは「運がわるい」のかというと、僕はそうではないと思うわけです。「あんな戦場で生まれなくてよかった。日本に生まれてよかった」という言葉も聞くことがあるけれど、そしてまた、あんな状況でないこの社会で生まれたこと自体「運がよかったんだ」と言う人もあるけれど、本当にそうなのかな。この社会だってずいぶん生きづらさを抱えている人は多い。自死する人も毎年万単位で、これでは内線を戦っているようなもんです。

ファルージャやアレッポが悲惨な状況になるのは「運」ではなくてそこをそうすることで自分たちの条件を良くしようという、人間として卑劣な動機をもつ勢力があるからです。大日本帝国がアジアを侵略することで支配層をより潤うようにしようと思ったのと同じく。なのでそういう悪い条件を取り除けば、「運」という意味ではファルージャにいようがアレッポにいようが人としては同じことになるはずです。日本でも生きづらさの原因となっているさまざまな条件を取り除いていけばやっぱりそうなるように。どんな障害や病気になっても、それを補う機会が社会に備わっていさえすれば誰でも「運」を、「生きやすさ」を取り戻すことは可能なんじゃないかと思うのです。

何回「運」って書いただろう。もうこの話は終わりにします。

この間、仕事をしていて自分のMacにもっとフォントがあれば助かるなあと思いました。フォントって買うと高いんですね。それも高級なフォントになると明朝一書体でいくら、ゴシック一書体でいくらなんて細かく品目が分けられていて、相当お金をつぎ込まないと満足する環境が得られない。それで考えて、ネット上でフリーで、商用利用も可能なフォントを配布している場所ってないのかなと思ったのです。そしたら思ったよりそういうフォントを配布しているところがありました。たとえばこういうサイトからいろいろとたどっていくと面白い日本語フォントに出会えました。

http://fontfree.me

中には個人利用のみで商用は不可というものもありますが、そういう点にさえ注意をすれば別にお金をたくさんかけなくてもフォントが手に入ります。

もっと身近?でいえば、僕はMacを使っているけれどWindowsのフォントももしあれば便利そうです。それでやってみました。仮想環境に入っているWindows10のWindowsホルダーの中のfontsホルダーから、欲しいと思うフォントをコピーしてくるだけです。(これがライセンス的にどうとかいう話は置いておいて。)

そうするとこれまで見ていたサイトがメイリオで表示されたりして、「Windowsでこのサイトを見るとこう見えるんだな」とかがわかるようになりました。Windowsで見るメイリオよりMacで見るメイリオフォントの方がクリアタイプがよく効いて、よりきれいな気もします。WindowsはMacよりビデオカードがいいものも多いんだから、もっと文字のなめらかさに気を使うべきだと思います。なんだかもったいない。

去年の末からMacBook Airがらみで、Macで一太郎文書が読めないかとか、MacでMSOfficeなしでワードやエクセルファイルの確認ができないかとかを模索してきましたが、MacでWindows優先で作られたサイトの見え方確認もできそうだなと思いました。

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