「それでも青い日に」

今年は本当に写真を撮っていない。特に一眼レフを使っていない。春から夏にかけて二三度持ち出してからは、調子が悪くならないようにと時々スイッチを入れるのみでずっと机の上に置いたままになっている。もっぱら写真はスマホで、それも「撮るぞ」と構えるんではなくて、犬の散歩のついで、とかそんな感じでの撮り方になっている。そしてその回数もまた少なくなっている。
ひとつは親の健康状態がわるくなってあまり家をあけることができなくなったことがある。出たとしてもやっぱり家のことが気になってしまうし「写真なんかとっている場合だろうか・・・」と考えてしまう。これが仕事での外出なんだとしたら、そちらも生活にとっては大切なことだからその呵責も少ないんだろうけれど、写真は趣味だしなあ。
夜になるとじりじりと焦りのような嫌な感情がわいてくるのが困る。先生からは「親のことをみているでしょう。介護のこともやっているでしょう」と自分の肯定的なところも見ることを示唆されるのだけど、毎日病院に付き添っているわけではないし、毎日介護について連絡をとったり手続きをしているわけでもない。ただ、動き過ぎようとする父親に注意をしたり、寒さにやられないように衣服を買うのにつきあったり。今まで買ったものではまだ足りないと思うので、今度は丈の長い、本人が着ようと思ってくれるようなダウンを買おうと思っている。自分が冬に着るダウンは今からもう10年近く前に買った安物で、分厚い割にそんなに暖かくない。なのでどうせなら自分のもほしいところなのだけれど。

僕はものがきちんと整理された環境が好きだ。というか、雑然としているとそればかりが気になって目の前に集中できない。たまに新しい作業にかかる時など、まずはパソコン周りの整理や、それが高じるとちょっとした部屋の模様替えみたいなことをしてしまったりする。それで気分をリセットして作業にとりかかる。若い頃から模様替えするのが癖のようになっていて、ずっとさかのぼると小学校の頃に自分のための環境がほしいと贅沢にも考えて親にそれを嘆願したら、当時部屋が二つしかない状態でそれを実現するのは無理だと言われて泣いていた覚えがある。ほかの子の家に行くと自分の部屋やスペースを持っている子があって、それがうらやましかったのだけど、プレハブ式のミニハウスと、親が自分たちで建てたバラックのような建物の二部屋のみだった当時、僕が占有できる場所を持つというのはどだい無理な話だった。
去年から、築40年して壁や天井に傷みがきた部屋を内側からなおす作業をし始めたつもりが、何事もこつこつやるのが苦手ということもあってなかなか進まなかった。けれども壁を石膏ボードにしてその上から壁紙を貼る作業は、この間ようやくできた。といっても一階だけのことでまだ二階でもおなじことをしないといけないのだけれど。前はこの部屋が居間、兼、両親の寝室、兼、食堂、兼・・・という感じだった。それが一年くらいまるで使えない状態だったのが、しばらく前からここでまた親と食事をとるようになった。家については考え出すとまだまだ手をつけたいところがいくつかある。けれどもともと不器用なうえに、ほんとに「コツコツ」が苦手なので、頭の中に理想は浮かんでもなかなかそれを実現する気力、体力が湧いてこない。
韓国では政権が大統領のスキャンダルで揺れている。これはたまたまだけれど、BS日テレで「それでも青い日に」という韓流ドラマをやっていて、最初の20回ぐらいは見逃しているのだけれど、それ以降を録画しておいてたまに一気見している。このドラマが、ちょうど今批判にさらされている朴槿恵(パク・クネ)大統領のお父さん、朴正煕(パク・チョンヒ)氏が政権を握っていた70年代の頃を舞台としている。韓国が高度成長前で、政治も軍が実権をにぎっていた時代。この間、ドラマの中で、暗殺された朴正煕大統領から全斗煥(チョン・ドファン)氏に政権が移行する場面の実写フィルムが挿入されているのを見た。それは僕が高校2年生の頃あたりだったかと思う。その頃起こった市民や学生による民主化要求運動、「光州事件(こうしゅうじけん)」のことなんかも、当時、ニュースで流れていたのをうっすらとおぼえている。もっとも当時の韓国からの報道はまだ統制されている部分が多く、この事件の詳細がわかったのもそのさらに数年後だったように思う。今はなぜか活字を読むのがおっくうになり本を読まないけれど、いつ買ったのか光州事件の内容を記したルポルタージュが今もまだ本箱にある。
今をみれば韓国大統領のカルト教団とのかかわりを冷ややかに見る日本人もまた、カルト教団の影響を受けた政権のもとにあるじゃないかと思ったりしているのだけれど、それはともかくとして、中学から高校にかけて、僕は世界で起こる出来事について、それをニュースでみたり、いろいろと考えられる「陰謀」を頭のなかで想像してみたりするのが好きだった。そして、そんなことが好きだったならどうして素直にそれが学べるような道に進まなかったんだろうかと今になって考えることがある。すると思い当たるのは、ちょうどその同じ時期、自分が人の中で動くことについて、人と関係をもつことについて、「どうしてこうもうまくいかないのだろう」と深く悩んでいた時期でもあったことで、そちらの方が自分の「興味」なんかよりも当時としては自分自身にとって大問題だったからだということに思い当たる。青春の基礎になる10代の時期を、障害特性に邪魔されていたことが自分にとっては本当に痛手だった。

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