親不知を抜いてから一週間が経とうとしている。下の歯で、歯肉をかぶって真横を向いて生えていた歯だったから「病院の歯科に行けと言われるのかな」と思っていたけれど、週に一度来られるという口腔外科の先生に、いつもの診察室の片隅の椅子で普通に抜いてもらった。麻酔の注射を打つ時にちょっと痛かったけれど、あとはそれこそ麻酔が効いているので強い力をかけられているのを感じたり、抜歯跡を縫われている様子は伝わるものの思ったよりあっけなく終わった。ただ、痛みはだんだんマシになってきたもののまだ続いている。
これを抜く前は、その手前の歯が奥から押されている感じで歯茎も腫れるような感覚があった。親不知との間の歯肉に欠損ができる形になって、そこが不潔になったり膿がたまったりしていたようだった。なので実はそうしてダメージを受けていた手前の歯の具合もあんまり良くなさそうなのだけれど、もうこれ以上抜歯はごめんだと思う。
小学校から中学校に上がるあたりにかけて、何年間か病院の歯科に通っていたことがある。当時のかかりつけ医で歯列矯正を勧められたからなのだけれど、学校を早退して、忙しかった店を空けて父親に病院まで送ってもらい何度も治具をいじられて痛い目をしたけれど、結局歯列は直らなかった。一回につき結構な費用を払っていたのに。労力も時間もかかる病院通いを止めて、途中から街の歯医者さんに通いもしたけれど、そこでも結局歯列は「矯正」されることなく終わった。あれ、明らかに治療法の間違いがあったと思うんだけど、今更文句を言ってもどうにもなるものでもない。
当時、自分でも感じていたことの一つに、歯の途中に段が付いているということがあった。病院から街の歯医者さんに変わった時、お医者さんが「この子は小さな時に何か大きな病気をしたことがありますか?」と親が質問されていたのを覚えている。歯とは別に10代の成長期の頃、爪に良くくぼみが出来ていたのも覚えている。朝起きが苦手で、電車での通学時にあまりの人の多さに体が圧迫されて倒れたり、月に一度、「聖日」で体育館に長く立ちながら聖歌(仏教系の。)を歌っている最中に突然目の前に星が飛んできて何回か倒れたりしていた。活力が平均して続かず、突然に力がフニャっと抜けるのを感じることがよくあり「これは何だろう?」と思っていた。10代の成長期の頃にそういうことはよくあった。今でも立ちくらみが割とあるけれどそれはまた別の原因なのかも知れない。
父親がセニアカーの保管場所を気にするようになり、木で枠組みを作ってブルーシートで屋根をしようかなどと話し合っていたけれど、その労力も大変だなと思っていたところアマゾンで安いテントを売っているのが目に付いたのでそれを買うことにした。元々自転車を保管するような用途のテントなのだけれど、割合幅もあるし、セニアカーでも押入れればうまく収まる。ただ、今の父親の力では車軸のロックを外してセニアカーだけ押して入れるというのが難しいようで、高さがちょっと足りないテントにそのままゆっくり乗ったまま入り込み、ごそごそと出てくる。ちょっとかわいそうだと思ったので下にブロックでも積んでテントの「底上げ」をしてやろうかと思って手をつけてみたものの、元が直接地面に固定するように出来ているものだし、変に細工をすると結局テントを壊してしまいそうだったのでしばらく今のままで我慢してもらうことにした。
18〜19歳頃にかけて、長い休みの時には発掘調査のアルバイトをしていた。父親の縁で世話をしてもらったアルバイトだったけれど、高校の頃から特に良くなかった人との関わりの苦手さと緊張で、あまり作業にも興味が湧かなかった。それ以前に人との関係が気になって仕方がなかった。「まだ18やからこんなことを言うのは酷かも知れへんけどな、上司から勧められた酒は断ったりしたらあかん。家も近いんやから転がってでも帰ったらいい」などと言われて、付き合いの悪いことを指摘された。そう、今振り返ってみて自分でもそう思う。18の自分にあんなことを言う大人は確かに「酷」な人だったと。
シャベルで土を遠くに放るやり方や、トランシットで角度をとって正確な図面を書き、遺物の位置と形をプロットするやり方は勉強にはなったけれど、そんなことをしながら自分の本当にやりたいことは何だったんだろう?と疑問を抱くようになった。それが全くわからなかった。大学の講義でラテンアメリカ史をとった時に初めて、「ああ、自分はこういうことを勉強したい。世界で何が起こってきたか。何が起こっているかを弱い立場から見て勉強したい」と思った。けれど実際の大学での勉強は、制度上それが叶わなかったので、20歳を過ぎて引きこもり始めた頃はそうした本を買っては一人自室で読んでいた。
当時でも、自分の進路について、何かうまいやり方があったのかも知れないけれど、ただ一人閉じこもって悶々とするだけで本当にどうすれば良いのかわからなかった。今のようにネットがあり、部屋にいても相談する相手を見つけられる時代ではなかったし、第一、大学が行き詰まった学生の支援に熱心ではなかった。まだ大学へ進もうとする人間が学校の定員よりもかなり多い時だった。それが今であればうまくいっていたという保証もないのだけれど。元々障害の特性で人との関係に難を感じて生きてきていたので、何れにしてもどうしようもなかったのかも知れない。