情報量が多すぎる社会

僕はタッチタイピングができない。いわゆる、ホームポジションに決められた指を置いてそれぞれの指に割り当てられたキーを打っていくというやつ。キーボードをたまにチラッと見ながら無手勝流で打っている。本当はタッチタイピングができた方が便利で打つのも早いんだろうけれど、若い頃からそういう癖をつけてしまったので今更正当な打ち方というものを身につける練習はもどかしくてたまらない。なのでこれまでの人生でかなりの回数のミスタイプをやっているんだろうなあと、その時間がもったいなくなる。でも、人それぞれ、慣れた打ち方というものがあるのならそれでいいんじゃないかとも思う。元々が日本人には適当でない配置をしたキーを、変換効率の悪いローマ字で打つという変なことをしているのも無理のある気がする。
80年代にワープロを触り始めた頃はかな入力をしていた。そしてそれにだいぶ慣れた頃、コンピューターを使うようになってコマンドを打ったりするのにアルファベットの位置がわかる方が有利じゃないかと考えてローマ字入力に変えてしまったように思う。けれどいざアルファベット単体で打つ場面になるとキーボードをじっとみて一語一語打っていることも多い。
最近、例えば舛添都知事の記者会見なんかの様子を見ているとICレコーダーも併用するものの、要点をリアルタイムでノートパソコンに打っている記者が多いように思う。昔、パソコンの代わりはメモだったのだろうけれど、やっぱりあれは要点を箇条書きなんかにしているんだろうか。一度実際に見せてもらいたい気もする。
僕は板書というものが苦手だった。

このことは前にも書いたかもしれない。そのおかげで僕の学生時代のノートは自分で見ても大概気に入らなかった。まるでまとまっていなくて、単に先生が黒板に書いたことを下手くそに「模写」しているような感じ。けれど学校に通っていた頃は周りも皆そのようにしているようだし自分もそうしないといけないものだと思ってそうしていた。大人になって、例えば講演会なんかを聴くときに「ここは覚えておきたいな」と思うようなところは話された内容を自分なりに箇条書き風にまとめて書くようになった。そうすると結構自分でも納得のいくノートになっていくので、学生時代にも多分そんな風にしていればよかったのかも知れない。かなり我流のノートになっていただろうけれど。
これが会話の中でノートに書き留めていくとなると、途端にできなくなる。それは多分、マルチタスクが苦手な特性が関連しているんじゃないだろうかと思う。もちろん電話をしながらのメモなどひどいものになるか、全くできないかのどちらか。相手がよほどゆっくりと間を取ってくれないとメモというものがとれない。もう一つはその時の緊張の度合いというのもある。会話であったり電話であったりしても緊張の度合いが緩ければ書き取りができないというわけでもない。要は講演会のような、相手が一方的に多数に向かって話すような場合だとこちらは相手をそんなに意識しなくて済むので話を自分の中でまとめて勝手にノートに書き留めていくことが割とできる。けれど相手との距離が近くなればなるほど、それが難しくなるようだ。
今年に入ってから父親もそれを好むので野球中継をじっくりと見ることが多くなっているのだけれど、とても気になるのが昔から日本ではストライクの数を先に言ってボールの数を後に言っていたはずなのに、いつの間にかそれが逆になってしまっていること。例えば「ツーストライク・スリーボール」が「スリーボール・ツーストライク」という風になっている。これでは「野球はツーアウト、ツースリーから」なんて言っていたのが「スリーツーから」になってしまって、なんだか緊張感がなくなる。どうして順番を入れ替えてしまったのか、多分メジャーリーグがその順番だからだろうと思うのだけれど、なんでも真似をしたらいいというものでもないように思う。
もっとも真似をしていいのではと思うところもあって、それは応援の仕方。最近では野球もサッカー風に立ち上がって短い間に選手の名前を連呼したりその間ずっと「テーマ曲」を口ずさんだりしている。あれが純粋にプレーを見たいと思う時にはうるさい。
もう一つは、メジャーーリーグの球場では比較的少ないように思われる広告が、日本のほとんどの球場では多すぎる。お金のない球場(球団)ほどそうなってしまうのもわからなくはないけれど、バッターやキャッチャーの後ろの壁にやたら広告が入ると、そちらに目が奪われて落ち着かず、ボールを追いづらいことがある。
あるいは画面に試合情報を詰め込みすぎている局もある。だいたいわかっていればいいのは、いま何回か、ストライクとボールの数は、ランナーは塁上にいるのか程度でいいと思うのに、「首位巨人とどこそこの対決」とか、見てれば分かるようなキャッチフレーズを常時画面に表示したり、投げたボールがカーブだったかスライダーだったか、捕球された位置はなど、これもまた常時表示されたりすると、いくらデジタル化で画面が大きくなったとはいえ、目にうるさくて仕方がない。情報量が多過ぎて中身に集中できない。
ワードプレス標準のギャラリー機能がもう一つなのでプラグインでアルバム的なものを作れないかと思っているのだけれど、なかなかこれというものがない。見つかっても解説が英語だったり設定項目が多過ぎたりして自分にはわかりづらかったりする。その中で単純にワードプレス標準のアルバム機能を拡張するものがあったので一度試してみようと思う。・・・これも画像をクリックすると単純に拡大されるようなものでもないんだなあ。いったん一枚だけの表示になっても戻るのはブラウザの戻るボタンを押さないといけなかったり。やはり使い勝手がよくないようだ。

情報量が多すぎる社会” への4件のフィードバック

  1. ほんとにねー。「ツースリー」って言ってたのが、逆になったら言いづらいし、覚え直さないといけないし。でも実は日本が勝手に逆さまにしていたっていうんだからやむを得ない。どうして日本の球界はこんなことをしたのか。たぶん「良い」方を先に言ってあげようという「国民的親切心」があったのかも、なんて考えたりして。違うと思うけど。

  2. ああ、そうだったんですね。うん、確かにそうですよね。野球という競技を導入するときに最初からボールを先に言えば本家アメリカと順番を統一できていたものを、日本側がストライクを先に持ってきたと。言ってみれば今の状態はそれを元に戻しただけ・・・ということなんですね。勉強になりました。
    うがった見方かも知れませんが、当時、アメリカ方式(姓名を逆にするといったような。)を決して真似なかった日本の野球界って、それなりに反骨精神(国民的親切心)があったとも言えそうな・・・。今はまた「植民地根性丸出し」になっているのかも知れませんね。

  3. 「姓名」を逆にするっていうのは、本当にやめてほしい。とあるリンゴマークのサービスを受けようとしたら、名前が出てくるところに「みよこ 吉高  様」って書いてあって、めちゃめちゃ驚きました。でも最近は少しずつ、ローマ字表記の名前でも「姓 名」で表示してくれるようになってきたので嬉しいです。(明治時代とかの日本では姓名の順番を逆にするのがかっこいいという理由で逆にした知識人がいたそうです。や〜め〜て〜、と思いました。)中国や韓国の人の名前はきちんと姓名が正しい順番で表記されるのに。やっぱり日本はアメリカの植民地の名残がありありですね。未だに植民地的なものがたくさんありますが。これ以上言うと話が複雑になるので(後略)。

    1. 「姓名の順番を逆にするのがかっこいいという理由で逆にした知識人がいたそうです」・・・
      どうも中国や韓国と比べると、この国の、特にへたな!?「知識人」は植民地根性丸出し人間が
      多かったみたいですね。
      みよこさんは言葉についてお詳しいですね。
      僕はアメリカの文化は好きな面がいっぱいありますけど、マネして不便になるんならしない方が
      いいのになと思ってしまいます。

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