もうだいぶ時間も経ったので書いてもいいかと思うけれど、僕が初めて女性とお付き合いというものをしたのは30代の始めの頃だったかと思う。結果的に僕の不注意と配慮のなさでその方も周りの方も傷つける形でそれは終わった。今でもあの頃の自分のやったこと、相手への思いやりのなさを思うと自分が卑怯で小さな人間であることを恥じる。その後、数年前に仕事先で一度偶然にお出会いすることがあったけれども、ほとんど会話をすることもなかった。
ところで昨日久しぶりにその人の出てくる夢を見た。それは、僕が以前に辞めた職場で、今度はその人が周りの方と仲良く笑いながら仕事をしているのを好ましく感じる、という内容だった。
当時、自分が「下手だけれども油絵を描いてみたい」などと話したら、そう思うのならなんでも一度やってみて下さい。あなたならできるというような、その気持ちを応援する内容の手紙をくれたりした。けれど言うだけで実行力の伴わない僕は、結局その後油絵を描くことはなかった。その代わり、になるのかどうかはわからないけれど今は写真を撮っている。それもマニアというほど深入りもしていないけれど(何せカメラの機能もまだ十分に分かっていない。)、あまり物事の続かない自分が、これだけは間を置きながらも何年間か続けている。それであの時の約束のようなものを果たせているのかどうかはわからないけれど。
夢は大抵わるい内容のものを見ることが多いから、できれば毎晩こんな夢を見たい。人の幸せを心の狭い自分がホッとしつつ眺めているような夢。
話が全く変わるけれど、最近というか、ここ数年、「おかしな言葉もあるものだなあ」と思うことが割とある。前に民主党が政権を取っていた頃、その政権末期の首相が様々な意見が錯綜し混乱する党をまとめる方法として物事を「決め切る」ことが大切だと強調した。この時、その「決め切る」という言葉に違和感を感じて仕方がなかった。いったい、「決める」という言葉に「切る」という言葉を付けるのはふさわしいことなんだろうか。少なくともそれまでそんな表現は見聞きしたことはなかった。
そうしてまた違和感を感じる言葉を、やっぱり「切る」という言葉を付けて見聞きするようになった。「勝ち切る」。これも自分にとっては聞いて腑に落ちない。普通に「勝つ」でいいんじゃないだろうか。もし絶対に勝つという強い決意を込めたいのであれば、そのまま「必ず(あるいは、絶対に)勝つ」と言えばいいんじゃないだろうか。この言葉がこの間からのバレー大会のテレビ中継でも多用されているのを聞いていてなんだか居心地がわるかった。
「決め切る」は、「最後には決める」「必ず決める」が妥当なのでは。いつの間にその一回で済んでしまうことについて、「切る」という言葉を付けて、それがテレビなどでも多用されるようになったんだろう。この場合の「切る」は、本来継続して目標に到達するべき物事に付けるべき言葉のハズだったんじゃないだろうか。
山を登り切る、とか、本を読み切る、とか。走り切るとか。何かを継続して途中でやめることなく最後まで達成する様のことを表すのに「切る」という言葉を付けるのはふさわしい様に思うけれども、物事を決める、あるいは、勝負事に勝つという一回だけの現象に、「切る」を付けるのは変じゃないかなと個人的には思う。
もし決めるという行為を何度もする必要があり、それを続けることを表すというのなら「決めていく」が正しいように思うし、同じく勝ち続けることを要請されるときにはそのまま「勝ち続ける」が正しいように思う。ところがこれまで聞いた「決め切る」とか「勝ち切る」という言葉は、どうも一回きりの「決める」「勝つ」ということに対して使われている。なんでも「切っ」たらいいものでもないと思う。
もう一つ、これは思わず自分でも使ってしまいそうな言葉で「ほぼほぼ」というものがある。本来は「だいたい」「おおまかには」という意味で使われてきただろう「ほぼ」という言葉を二回繰り返す。これもテレビ出演中に使っている人を割と見る。どうして「ほぼ」一回だけではダメなんだろう。あまりに繰り返されるとしつこい感じがしてウンザリしてしてしまいそうだ。
言葉遣いは時間の経過と共に変わっていくものだとは思うものの、あまりにも唐突な使い方をされると当惑してしまう。