父親はセニアカーの操作にかなり慣れた。というのも、決まった出先と家との往復時間が日増しに、目に見えて早くなっているので。面白いのは父親がセニアカーに乗り出してから、これまで車に乗っていた同世代以下の知り合いの人たちが急にそれに興味を持ち出して「試乗」などもしていること。人って見栄っ張りなんだなと思う。
この辺りは車がないと買い物などかなり不便なので、父親同様、運転能力にも衰えを感じつつ仕方なく車に頼っていた人たちが、「あの人(父親)が乗るのなら」と興味を持ち出しているように思える。それでもやや遠い場所や雨の日、寒い日暑い日は、やっぱり車のように屋根や空調がないと体には過酷な乗り物となってしまうので、そういう時は引きこもりがちな自分が車を出すしかない。
それで、父親が車に乗っていた頃は毎日のように買い物に出ていたのを、この頃は二日に一度にするようにしている。その方が自分の負担が少ないので。高齢になると「まとめて買い物をしてそれを何日かに分けて使う」という事が難しくなるみたい。なので「昨日買い物に行ったから今日は車を出さない」というと(実際、食料もあるので。)父親は怪訝な顔をするけれど、僕もここのところ体調が良くないから言う事を聞いてもらうしかない。それでも納得がいかなかったら・・少しくらい遠くても父親は勝手にお店まで出かけて行ってしまうのだろう。それでもいいと思う。これまでのように車で周囲にストレスを感じさせながら、自分もそれを感じながら移動しないといけなかったのに比べたら。ただ、セニアカーにも結構出費が要った。
父親は今日も「カバンがない」と言い出して、一旦家に帰ってからまた出先へと戻って行った。結果、見つかったのは良かった。この間と全く同じ場所にしまったまま、やっぱりそれを忘れて帰ってきたらしい。僕は若い頃からそういうことを繰り返しているけれども、父親はそういうことはなかった。それが通常の老化というものなんだろう。僕のは普通に言えば「大ボケ」で、かっこよく言えば「障害」にくくれるところもあるのかもしれない。
今欲しいなと思うのは、やっぱり一眼レフカメラの単焦点レンズと、それからブルーレイレコーダー。ここのところ写真はずっとスマホで撮っていて、それでも割と自己満足できる写真が撮れるのはありがたいのだけれど、せっかく一眼レフカメラがあるのに一つしかないズームレンズを付けっ放しで、それだと写りに不満が出ることも時々ある。なるべく広角の、それでも周囲があまり歪むこともなく、明るく撮れる単焦点レンズが一つ欲しい。レコーダーは、親の部屋のテレビだとハードディスクで録画ができるのだけど、自分の部屋にあるテレビにその機能がないので気兼ねなくいつでも好きな番組が観れるようにしたいから。毎月の光熱費の支払い一つなかったら、それこそどちらも割と簡単に手に入れることができそうなんだけれど。
一眼レフカメラは、多分今の自分にはもうとっくに贅沢品になっているだろう。
車は、日々の買い物や通院の手段として、生活していくのにどうしても要る。テレビは、少ない日々の娯楽の手段としてやっぱり親と自分には要る。だからレコーダーもなるべく欲しい。ずいぶん前、本多勝一氏の「アメリカ合州国」を読んだ時、貧しい家庭(その時強調されていたのは当時差別に苦しんでいたアフリカ系アメリカ人のそれだった。)ほど、車とテレビが家に必ずあるということが書かれていたのを思い出す。
今日は天井板一枚だけでも貼ろうと、重い体を無理に引き起こしてやってみたら案外うまく表の模様もそろうようだったので「よかった」と思っていたら、両面テープで仮固定していた部分が、ネジを探している間にベリベリと剥がれてきて、すでに留めておいた片側のネジや釘からも板が外れて落ちてしまい、ガッカリした。脱力してしまい、これからもまだまだこの格闘が続くのかと思って、それでも少しでも進めていかないと仕方がないので余った断熱材を床に積んであったものを折りたたんで玄関の余ったスペースに置き直し、やっぱり床に置いてあったいろんなものも机にあげて整理して(捨てて)いくことにした。これまでその臭いに悩まされていた古い断熱材や木材はほぼ捨てることができているのが救いだと思う。