父の入院以来の疲れが半月ほど遅れてきたようで、それ以来、不調だった。イライラや不満が募ってしょうがなかった。診察に行ってその事を話したら、
・自分の好きな事を大事にする。
・少しのことでもいいので人との関係を持つ
のがいいと聞いて、気候も良くなってきて体も動きやすくなってきたのでなるべく外に出て、そういう機会ができるように「努力」している。
桜は咲き始めから散るところまで、これまでにないくらいたくさんその様子を見た。雨がザッと降るとテレビなんかはすぐ「桜はこの雨で終わり」みたいなことを言うけれど、品種にもよるのかも知れないが決して一度に散り終わることなんてない。よほど、それこそ台風にさらされるようなことでもなければ「終わり」ということはあんまりないと思う。むしろ雨に洗われて、少し散った花びらの間から緑が見えるくらいの頃が桜はきれいだと思う。一番きれいなのは今日のように桜吹雪が見られる時。それでも木にはまだ花がたくさん付いている。
こういう気候の時には、特に晴れの日は歩くのがからだにも心にもいいようだ。この間、誕生日の自分へのプレゼント!にと思って、アップルウォッチとまではいかないけれども(あのデザインは僕には後述の理由で合わない。)、android向けのウエアラブル端末・・・と書くと難しそうだけど、要は腕時計も兼ねた活動量計で、スマホにその時々の活動や睡眠の記録を残してくれる、それを買った。3000円程度の安いものだけれども、時計の機能も果たしてくれるし歩数や消費カロリーなんかも記録してくれる。何しろ寒い間、動かない割に食べたのでからだはしんどい事になってきている。端末を腕に巻いておくだけでも常にそのことを意識させてくれるのはいい。
「後述」と書いたことは、僕には腕時計のように手首に物を巻くのが不快なところがある点で、それは高校の頃に初めて腕時計をはめたあたりから感じていたはずのことだけれども、ともかくその頃は周りに合わせるのが第一だと思っていたので我慢してはめていた。けれど自分には腕時計の本体がベルトからはみ出して手の甲なんかに当たったり、それがずれて腕の真ん中にあっていなかったりするのがまず不快だということを自覚するようになってきた。なので今はめているandroidウェアは時計や活動量を表示する本体部分が完全にベルトと一体になっていて横幅もはみ出しておらず、きちんと巻けば表示部もずれにくい形状をしている。いわばリストバンドみたいな形。ただ、やっぱり長くはめているとベルトが当たる部分が気持ちわるく感じることもある。最初のうち、睡眠のリズムもとったりしていたけれど、それはやめて寝る時には外すようにしている。
考えてみると、過去、自分にとっては気持ちが良くないことでもただ周囲に合わせないといけないからと考えてそのままにしていたことが多かった気がする。それは随分小さな頃から。そのことは、大袈裟かもしれないけれど「自分の価値観を持つ、自己肯定感を持つ」ことをいつも阻害してきた感じがする。もし「周りに合わせる」ことよりも自分の思いや感覚に重きを置く時間をたくさん持てていたら、僕のこれまでの生き方は随分変わっていたのかも知れない。ただ、それができなかったことがある意味障害の一部でもあったのだろうと思う。
こうしてノートを書いてその日一日の不全感を補おうとしてきたことは、そのこととと関係があるのだと考えている。そして最近はあまり周りに合わせ過ぎないことを大切にしようと思っている。自分が一定程度まともなことを言っていると思うような時には、それを実際に表に出すようにしようともしている。
写真はすべて、ほとんどが犬を連れながらスマホで撮ったもの。もう一眼レフはお蔵入りに近い状態になっている。老眼で液晶を見ながらの撮影になるのと、犬が気になったりするのでピントがずれ気味になるけれども、逆に言えば犬を連れながら一眼レフよりはるかに軽い本体で、それが連絡や予定管理の手段にもなるのなら、どうしてもスマホの方を持ち出してしまう。けれど一眼レフカメラの方も諦めた訳ではなくて、この間も安くていい単焦点レンズがないかオークションなんかを覗くのだけど、市場というものがある以上、今の自分の身分で「安くていいもの」というのはなかなか見つからない。けれど今のスマホの写りも気に入っているので、特に近接撮影なども以前持っていた大きめのマクロレンズなどより上手く決まるときもあったりして、このお手軽撮影はわるくない。いちばん最初に書いた、「好きな事を大事にする」にもピタリとはまっている。
もう一つの「少しのことでもいいので人との関係を持つ」の方も、父親の後ろに時々隠れるようにしながら気安い人たちと短時間話したり動いたりもしている。それでもやっぱり多少緊張はするけれども。こちらの方は、変な話、後々不快なことにならない範囲で、ごくごく浅い感じで関わるということが自分にとっては大事なんだなと思っている。あんまり密接になると、その関係が自分には重く感じられる。これはやっぱり小さな頃から人の中で楽しさよりも不快な緊張を感じる時間が多かったことと、そのために、人との関係をなるべく避けてきたことの弊害が出ているのだろうと思う。少しのことで傷つきやすいというのは、そういう背景があったからだろうと思う。
僕には人から聞いた「やった方がいいこと」をなるべく早く実現したいと思う傾向があるけれども、あんまり焦らない方がいいようだ。焦ると今度は「この次はどうしよう、その次は・・・」という状態になって「やった方がいいこと」が「やるべきこと」、もっと言えば「やらないといけないこと」という風にどうしても義務的な方へと傾いてしまう。それは避けた方がいいだろう。
私用ではあまりパソコンを使わない人が、若い世代には増えているらしい。それはそうだろうと思う。僕ももし今10代や20代だったとしたら、多分スマートフォンで大体のことを済ませようとするだろう。大きくて重いパソコンは持たず、出来ればiPadやsurfaceのようなキーボードと分離できるタブレットを手に入れて、ブログ更新や、あわよくばサイト作成もそれで済ますようにするだろう。
けれど僕のパソコンデビューの環境は今とは大きく違った。90年代の始めはまだNECの98シリーズがパソコンといえばそうだったし、MS-DOSの上で一太郎や、印刷がとびきり難しかったロータス1-2-3を使うのが普通だった。弟からJGという、当時としては高機能のワープロソフトをもらって!使うことが多かった。まだソフトウェアのライセンス意識があまりない時代だった。
なぜこんなことを書き出したかといえば、さいきん押入れの中からMS-DOS6.2のフロッピーのセットと、同じくWINDOWS3.1のそれらも見つけたから。それを機会に数百円になっているUSBのフロッピードライブを買い、中身の確認をしたら、暑さや湿気もすごかったろう押入れの中にあったそれらフロッピーディスクがちゃんと認識できた。そうなるとしばらく前に処分してしまったPC98-BXも残しておけばよかったと今更思う。モニターがなかったのでどうせこの先役に立つこともないと処分してしまったけれど、今になって当時の環境を欲しいと思う人が出てきたり、実際に工場などでまだ98シリーズが運用されていて、部品取りに使える場合があるので98にまた価値が出てきてもいるらしいとわかったので。
ただ、フロッピードライブを再び手にできたのでいいこともあった。それは、例えば90年代の後半に始めたサイトがそのままフロッピーに保存してあったこと。それを取り出して現在のブラウザでも見ることができたこと。思ったのは、当時、細い回線なりにきちんと色使いを考え、表組みでレイアウトを作りながら結構しっかりしたサイトを作っていたんだなということ。今のように別に膨大なCSSファイルを用意したり大きな画像を使っていたりはしないものの、テキストとちょっとした飾りを入れたサイトはとても見やすい。
何より、20年近く前の自分の思いや活気に触れることができたこと。まだ開いて見ていないフロッピーディスクもあり、おそらく大半は当時のフリーソフトやら、今となっては役に立たないバックアップディスクの一部やらだろうとは思うものの、もしからしたら思わぬものが出てくるかも知れない。
一度のノートにこんなに写真を入れるのは始めてだと思う。これならアルバム用プラグインでも入れてまとめたらいいのかも知れないけれど、一度にそれをするのを難しく感じたのでアルバムも兼ねて、春に撮った(まだ春は続くけれど)写真たちの一部を短い文章に挟んでみようと思った。