運転をやめる父

父親が運転をやめることを決めたので、それでも足は必要だからと身体的には何も問題はないけれど内部の疾患のためには必要なシニアカーを、もう買うつもりで見てきました。幸い、車を買い取ってもらうメーカー(スズキ)がそれも販売しているので、買い取りと買い求めの話を同時に進めることができ、もう数日後には切り替えができることになりました。自分でも運転(?)してみたけれど、平坦な路面では結構な速度も出るしゴーカートみたいでおもしろい乗り物です。ただ、車の通行量の激しい時間帯や場所では最初の慣れない間は危ないと思うので、父親にとってもしばらくはそれらの少ない場所での「練習」の時間が必要になるでしょう。
かなり昔の話になるので今の基準ではお話にならないけれど、父親は若い頃運送会社に勤めていた時大型二種免許をとったりして車の運転は比較的得意な人でした。歳をとってからも、近くの福祉施設から中型バスを借りて狭い街中を運転するくらいはできたようです。実際、若い頃は僕ら家族を乗せてうどん屋で使っていたカローラのバンを使い割合遠くまで出かけてくれたりもしていました。ずっと前にも書いた事がありますが、一番思い出に残っているのはまだ淡路島に橋が架かっていなかった頃に大阪まで行き、フェリーに乗って島に渡って島の半分くらいをくるっと回って一日で帰ってきた日のことです。お猿さんを見たり馬に乗せてもらったり、花を農家の方に分けてもらったり海を眺めながら小休止をとったりして、たった一日だけのことでしたが印象に残った日でした。行きのフェリーに乗る時、買ってもらったばかりのラジカセでカセットテープを聞きながら、ただ、その時僕はなぜか物悲しかったこととと、帰りに高速のサービスエリアのレストランで食事をしながら窓の下を流れて行く車のヘッドライトを見ていたらすごく哀しくなったのも、やはり同時に印象に残っています。それは今も続く、小さな頃からある不意にやってくる悲哀感でした。もっとも今はどうしてか悲哀というより刹那的な怒りの方がよくやってくるのですが。それはなるべく薬でおさえているような状態です。

今日は夜更かししていますが、先月父親が突然入院となって数日後に退院してきてから、自分の生活も朝起きて夜寝る普通のリズムになることも出てきました。それは父親がほぼ朝方になって不具合を伝えて来た時に自分が寝ていなかったばっかりに病院での付き添いがその日少し辛かったことから、今後もし朝にかけて突然何かがあっても、それまでの時間少しでも寝ていればそうした疲れは少ないだろうと思うようになったことがあります。反面、夜寝る前はあの時の事を思いだしていやな緊張を感じます。「また何かあるんじゃないだろうか」と思うとあんまり安心して眠りにつく事ができません。今はメイラックスとリスパダールを飲んで眠気を待って眠ることにしています。
お医者さんは時々容赦がない。おそらく「十分注意して無理はしないで下さいよ」と言われているのでしょうが、その表現が「爆弾をかかえてはるようなものですからね」となる。うちの場合、両親ともにそう言われるのが気弱な自分にはいっそう不安をかきたてられる結果になり、自分自身についても嫌気がさしているところにさらに追い打ちをかけられたような気になります。ISの「テロリスト」(もっとも大航海時代から植民地争奪戦を繰り広げて来た大国たちの方が、より大規模で残酷なテロをしてきたあげくが今の「テロ」を生んでいる部分が多いわけですが。)じゃあるまいし、「爆弾」などという言い古された表現ではなくもう少し洗練されたお医者さんらしい表現で伝えてもらってもいいんじゃないかと思うことがあります。
春先になり、光が強くなって来て写真を撮るにはいい頃合いになってきました。もっとも遠くまででかけることもないので、いつも犬を散歩させる公園でスマホカメラを使う程度ですが、それでも光の強さが光景に陰影を作り出すことで、写す写真にもさまざまに表情がでてくるような気がします。冬は何を撮ってもモノクロを思わせるような写真になりそれはそれでいいと思う面もあるのですが、やはり僕のような素人が普通に撮って気分がいいのはこれからの季節です。撮る手段はスマホでも一眼レフでもいい。ただ気持ちを動かされる光景に出会いやすい季節にはなってきました。

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