単焦点レンズから始まって愚痴

一眼レフカメラで撮るときには単焦点(焦点距離がひとつに固定されているもの)レンズを使う方が明らかにきれいに撮れる(気がする)。なんとなく、他の方のブログなどに影響されている点がないとは言えないとは思うものの、自分が今唯一持っている単焦点レンズであるTAMRONの90mmマクロレンズ(望遠と近接撮影を兼ねることができるレンズ)で撮った写真と、もうひとつ、常用しているズームレンズSIGMAの17mm-70mmで撮ったものとを比べると、透明感や空気感、全体の明るさが違うと感じることがある。
以前は30mmのデジタルカメラ用単焦点レンズや、フィルムカメラ時代に評判の良かった35mm(これを自分が使うデジタル一眼に付けると実際には50mm程度の「ちょっとだけ望遠」になる。)を持っていて、それで撮るとやっぱり写真の美しさが違った。ただ、30mmや35mm(実際には50mm)のレンズだとさっき書いた、今も使っているシグマのズームレンズと焦点距離がかぶるので、収入がなくなってからはこれは贅沢だと思って売ってしまった。実際、ある程度の額になって当時はレンズよりも重要な役割をしてくれる携帯代なんかに充てることもできたので、それは正解だったとは思うものの、去年の年末から現実逃避でカメラのことを考えていた時にふと「単焦点レンズが欲しいなあ」と思うようになった。
SIGMAのズームレンズもとても気に入っているし、明るい場所なら単焦点レンズとそれほどひけをとらない写真が撮れる思うので、これがあったら自分が写す分にはなにも不自由はないのだけれど。

フィルムカメラは現像作業があるのでコストがかかるけれども、デジタルカメラになってから写真をパソコンやスマホの画面で見れるようになって、カメラに興味をもつようになった。もしデジタルカメラが開発されなかったら、僕は興味はもってもカメラを趣味にすることはなかったと思う。
ただ、本体やレンズ代などはやっぱり要る。お金が余っている人なら「レンズ沼」といっていろんなレンズを購入しては試しているうちに、専用の保管庫が要るほどレンズをそろえる人もいるのだとか。僕はあんまり物がたくさんあると混乱するしそこまでのことにはならないとは思うものの、今回、オークションなどで2000円ぐらいで売られている古いフィルムカメラ用のレンズなら手に入れられるかなと思って探してみた。すると今のカメラとの接続部分に合わせる工具なんかも要ることがわかってきて、なんだかめんどくさくなってきてやっぱりレンズはあきらめることにした。
だいたい、去年から一眼レフカメラを使うことが少なくなっている。今は外に出るのも親と買い物に出る時と通院付き添いぐらい。本当は「撮影を楽しむ」なんていう余裕はなかったんだった。
最近、やたら眠くなる。春に渡す作業を始めたものの、昼間は自分の部屋のヒーターをつけるのがもったいないのでノートパソコンを親の部屋に持っておりて小さな画面で作業をしている。そうするとひとつ区切りがついたらもう疲れて眠くなり寝てしまう。作業自体は進んで行くと興味が出て来るのだけれど、今回は去年の分の支払いもまだして頂いていないという、作業内容と関係のないところでモチベーションが落ちてもいる。水光熱費や時に食費も自分の預金から引かれて行くのでお金はなくなっていくのに、唯一自分でやった作業収入が入って来ないというのはつらい。甥や姪に十分なお年玉も渡せなかった。
収入があってもレンズに使う気持ちは失せているけれど、経済のことはいつも気持ちにのしかかる。26で精神科にかかってから福祉施設や一般の事業所で働いたけれど、周りで働く障害を持つ人はたいがい年金を受けていた。直近の職場では身体障害者ばかりでもちろん年金を受けながら(だろう)仕事をしている人が多くいた。実際に施設にいたときには夫婦ともに障害年金があり、加えて作業工賃も入るので月に相当な額になるから「こんなに受け取っていいんだろうか」と言う人もいるんですよ・・と、「暴露」される職員さんもいた。前の職場では、給与以外に年金も受けていて医療費も月に数百円しかかからないとう方もいた。その人に、「身体障害なら自動車税も免除されるのでは?」と話したら早速問い合わせをされて翌日には「母親からメールが来てやっぱり免除されるらしいです」と喜んでおられた。僕もその時には自分の持っている情報が役に立ってよかったと思った。
でも今になるとこれから親の介護や医療に必要なお金とか、自分自身の状態がよくなくなった時のそれとかのことが気にかかる。おそらく生活するのに必要なだけを得られる仕事にはつけない可能性が高い年齢と能力でもあるので、最後の最後には生活保護の申請に賭けてみるということになるんだろうなあとは思うものの、今はともかく親のことが優先事項になっている。
昨日はふたりを歯医者へ連れて行ったら日を間違えていたとかで、今日も夕方から出かけて来た。犬を連れて行ったので待っている間近くの公園を散歩した。それが自分が一日で「運動」する分というのも異常な感じだけれど。考えてみると寒い時季というのはひときわ苦手だ。変温動物みたいに体がうごかなくなる。
年が明けてから週に二回は両親どちらかの通院付き添いとうことになっている。そしてどちらについても病院の変更や介護施設の利用の仕方など、考えて決めないといけない節目が来ている。当人らはあんまり自分たちのことについて考えることがないので、出来損ないの頭の自分が考えることが多くなる。
この年末年始に考えた。僕には弟がいるけれど、小さな頃からまったく正反対に、彼は行動的、社交的で周囲からの信頼も厚かった。しんどいことも多かったろうけれどきちんと仕事をこなし、他から引き抜きを受ける程度の能力を社会で出している。親族の受けもいいし、ともかくがんばっている。
それに引き換えこの自分はどうだろう。同じ親から生まれたとは思えないほどの能力差があり、特に社会に出てからはほぼ使い物になっていない。同じ親から生まれて同じ環境で育てば、たいていは進む道は違ってもそこそこ同等の社会生活を送ることになったはずじゃなかったのかという疑問が出て来て仕方がなかった。僕もふつうに大学を卒業し、就職し、結婚をして家庭をもつことも出来たはずではなかったのか、と。ところが今はそれらを全て果たせなかった自分が親のことを気にかける立場になり、だいたい怠惰な日々を送り、経済としては最後は生活保護に賭けるのだろうということになっている。弟からは親亡き後の遺産相続について非常な情けをかけてもらわなければならない状況になっている。それは障害があったからだ、あるいは、一般的に「幸せ」とされていることや経済的能力があることが全てではないのだということは、頭ではわかる。けれど今の自分の限界として、こんな状況になんの甲斐があるのだろうかとよく思う。

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