いよいよ大きな寒波が来るらしいとテレビで言っていたなあと思って、昨日はまだ換えていなかった自分の車のタイヤをスタッドレスに付け替えることにした。このあいだ父親の車の方は済ませているので同じ要領でわりあいスムーズに進んだのだけれど、やっぱり体がくたびれる。
夕方、父親と買い物に出て、ついでに犬を公園で遊ばせた時に、だいぶ暗くなった風景をスマホで撮ってみた。とても「ぶきみ」な写真になった。そんな時間に風景を撮っている人なんか誰もいない。
これまで自室の暖房は小さな電気ストーブを使っていたけれどさすがに耐えられなくなって来て、ガソリンスタンドで温風ヒーター用の灯油を買い、ついでにタイヤの空気圧を合わせた後買い物を済ませたら、その帰りにはもう気持ちが重かった。夜に母親の診察があることを思いだしたので。しかも少しややこしいことを言わないといけないのだった。するとどうもまた新たな病院か診療所に行かないといけない状況になったので、思わず先生の前で「もう疲れました」と言ってしまった。
晩はまた怒り発作のようなものが出てきて、いろいろなことが恨めしくなり、ひとり愚痴をこぼした。それをしても仕方がないのだけれどなあ。ただわかるのは、基本的に体が疲れている時にそういう状態になりやすいということ。逆に、「ああ。疲れた」と思って少し眠った直後なんかもそうなりやすいこと。
これは30代の頃、コピー屋さんに行っていたとき、休日の、本来はのんびりできる時に昼寝をした後などなぜか怒りが出てくるということを主治医に話した記憶が今も残っている。「どうしてそういうタイミングでそうなるんでしょねえ」と先生は返して来られたのだけれど何も言葉が出ず、その後先生からも「正解」らしい言葉を聞くことはなかった。このことは今でも考える。「かえってホッとし過ぎるといけないのかなあ・・」とか。
でも今になって思うと、やはり疲れているから、たとえ多少眠って休んだと思ってもまだ疲れが残っているからじゃないかという気がする。そういう時には感覚も張っているのでいろいろなこと、特に過去の嫌だったことが頭の中でよくよみがえって来て不快になるんじゃないかと思う。普通なら、たとえば夜によく眠れると朝には「あー、よく寝た」とさっぱりとした気持ちになることもあるらしい。でも僕の場合、子供の頃からほとんどそんな気持ちのいい目覚めを覚えたことがない気がする。
朝がとにかく苦手で、テレビをつけると元気な声で人が話している。今日も一日がんばりましょうとかなんとかかんとか言う。ああいうのを聞いてどれくらいの人が「よし、がんばるぞ!」と思うのか知らないけれど、僕の場合はがんばるも何も、その前にまず起きてしまったことに落胆する。そしてどうしても起き上がらないといけない時間までの間に、それまでの嫌だったことが頭の中を去来して不快になる。
まだ本が読めた頃は、そういう時間帯に寝ながら少し活字を読んだ。それもあんまりさわやかな内容のものではない、戦場の様子を伝えるルポルタージュやら近現代史を簡単に書いた物やら。いかにも寝起きの時間にふさわしくはないそれらを読んでいると、ちょっと頭の中の不快が去ってようやく平穏を保てた。今は活字を読むのが苦手になり、代わりにスマホのニュースなんかを見たりゲームをしたりする。
脳の中では前頭葉というところが人間的な高度な判断をしていると聞く。パソコンで言えばCPUみたいな存在になるんだろう。本来ならそこがいろいろと判断することを、溢れ出さないように整理していったん置いておく場所がいる。それをパソコンで例えるならメモリであったりハードドライブといったものだとすると、僕に足りないのはそれらかなと思う。
いいことはともかく嫌なことを置いておく場所が少ないとなると、本来は当面のことを判断すべき前頭葉にいつまでもそれが居残ることになる。「いいこと」も含めて。
いや、考えてみると「いいこと」でさえ僕にはとても負担に思える場面が小さな頃からあった。わかりやすい例でいえば人から褒められた時。小さな頃、親戚などに行って「かずやくんは賢いね」などと、小さな子供になら普通にかけるような言葉を言われた時など、それが事実ではないと思うと自分が恥ずかしくなり、ともかく全力で否定していた。保健所にお世話になった時、保健師さんにいろいろと迷惑をかけることがあり、それが自分でもあとでくるしくなってお詫びの手紙を書いて渡したりしていた頃、別の保健師さんが「かずやさんはやさしい」と言って下さったことがあった。その時にも自分がそんな言葉掛けをしてもらえる存在ではないという気持ちが先に働いて気持ちがわるかった。若い保健師さんは僕のそうした様子を察知してきょとんとされている風だった。
いろいろなことを記憶しておく、置いておいて余裕のできた時に考える材料としてまた引き出すという、人としての正常な働きが、僕の脳みそには足りないらしい。なので急に褒められたり批判されたりするとそれがどうしてなのか、とっさにも後からも判断がつき辛く、いつまでも気持ち悪さが残る。なので本当に窮屈な話ではあるけれど、褒められたり怒られたりする時には、それがどうしてなのかをはっきりと示してもらう方が僕にはいい。これが発達障害の特性としてよく言われる「空気が読めない」ということにつながるのかも知れないけれど、読めないにも二通りあって、実はその瞬間の周囲や人の不快そうな感じ、何か言いたげな様子は、自分の場合にはわかる場合が多い。ところがその理由がわからないので、それが言ってみれば「空気が読めない」ということになるのだろうと思う。
今年になっていっそう激しくなった怒り発作の原因は、おそらく親の健康状態や自分のそれや今後のことなど、いろいろと処理すべきことが多くなり過ぎて、前頭葉の本来必要な怒りの抑制や正確な判断といった機能がおかされてきたということじゃないかなと、たいそうに書くとそう思ったりする。
僕には「物事の予測がつけづらくて不安になる」「終わったことや先のことについての後悔や不安が大きい」という特徴があると感じているけれど、通常なら「これは今考えるべきこと」「これは後からでも考えられること」「これは自分ひとりではどうしようもないので人に相談すべきこと」などなどの判断を、都度の処理を司る前頭葉がまず行い、それを補完する場所、大脳だか小脳だか知らないが、そうした場所があって全体として頭の働きのバランスがとれるんじゃないだろうか。ところが一部のみ(パソコンで言えば都度の判断をするCPU(中央演算処理装置)のみ)が異様に働き、それを補完すべき部分(やっぱりパソコンで言えばメモリーやドライブといった部分)がしっかり動いていないので、前頭葉が暴走して行動がおかしくなることがあるような、ないような・・・ともかくそんなことを考える。
認知療法で、ノートを開いて物事を客観することに効果を覚えるのは、まず手を動かしてペンで書くという行為が、大脳や小脳といった場所の働きを正常な物として呼び起こすきっかけになるということなのかも知れない。ちゃんと働いていないメモリーやドライブにもっと電圧をかけて正常に駆動させるきっかけに、それがなっているのかも知れない。そして問題や不安を文字や図で視覚化することで、ようやく人並みの判断力を取り戻そうとしているということなんじゃないだろうか。けれど頭のCPUが加熱していかれてしまうと、もうそうした行動も都度とりづらくなってしまう。
自分がこうして時々ながく文章を書くのも、安心できる人とならついつい言葉が多くなりすぎるのも、処理のしづらいことをともかく吐き出したいという気持ちと関連しているようにも感じる。なので僕らの感じる「怒り」というのは、普通の人の感じるそれとは質が違う場合があるのだろうと思う。
「エヴァ」が暴走する、あの様子にも似ている(わからない人にはわからない。)。どうにも判断のつかない、混乱した状態になり暴れまくって頭を壁にぶちあてたりする(実際の自分はぶちあてないけれど)。逆に神経が鋭敏になり、普段は動作のにぶい自分が「覚醒」したかのように動いたりする。けれどそれはどちらも正常な状態ではない。
まったく話が変わります。この間からなんとなく「魂」と「身体(からだ)」についてのことが頭に浮かんで来て、考えだすことがありました。以下の文章からは死刑制度や自己否定の話が出てきますので、読みたくない方はここで読むのを止めて下さいね。
この国には死刑制度があります。先日だったか、裁判員制度が始まって一審で裁判員の判断により死刑と審判された人の刑が確定したというニュースをちらっと聞いたような気がしました。調べていないので執行されたということなのか確定しただけなのか知らないんですが、これは法を絶対のものとして自らを超越して信じる訓練をしてきた裁判官や検察官ならいざ知らず、普段は法などそんなに意識して生きていない人たちにとっては、なんぼ対象の人物がそれに値する悪さをしたのだとしても心に重くのしかかる出来事だろうなと思ったものでした。裁判員という制度は死刑うんぬんといった事例で使うべきでないということは前から思っています。
それはともかく、どうして死刑という制度をこの社会がまだ残しているのかと言えば、どう考えてもそれでしか被害者やその関係者の気持ちが済まないだろうという出来事があるから、ということなんだろうと思います。僕は以前「死刑制度は全世界で機械的に廃止と決めればいい」という文章を読んで、「なるほど」と思い、それであれば「感情的には死刑にしてやりたいけれども人類として死刑はなしと決めたので」ということで納得ができると思っていました。いくつかあったえん罪事件のニュースなどを見ても、更生した人を許す被害者がいる事実を見ても、それらを一気に否定してしまうことはあんまりやらない方が良いんじゃないかと。
でもここ数年はずっと死刑はあっても仕方がないと思うようになりました。テレビや新聞は人をだますのであんまり事実を早計に判断してそれと審判するのも間違っているとは思うものの、やっぱりその存在が許せないということはあるよなあ、と。
でももし魂というものがあって、それを身体というものがこの世に具現化しているのだと考えるなら、ちょっと話が変わってくるような気がしたのです。つまり魂というものは純真無垢な存在です。「わるい魂」とか「よい魂」というものはない。それこそ本来の「中立」的存在です。ところがこの世に生まれて生きていくには「身体という皮」をかぶらないといけない。この身体がくせ者です。生まれてくる環境やその後の生き方や周囲との関わりの中でどうしても疲弊してくる。それがいい意味で疲弊する割合の多い人もあれば、生まれたときから異様な状況に置かれて痛め傷つけられ、結果としてこの社会に絶望したり、あるいは反社会的な感情にのまれる例が出てくる。その時に自滅の道を選んだり、逆に他滅を選んだりしてしまう例がある。
僕は今は自分がいなかったらよかったのにと思っています。僕の身体の動きやその源となるものたち(考え方や感情など)はこの社会に適合していない。だからしんどいのです。もういい加減、いいなと思っている。けれど食べたくなったり人恋しくなったり、こんな自分だけれども何か生き甲斐を見いだせないものかと思ったりする時がどうしようもなくある。もっとも今はやはりこの身体はなくす方が合理的だと思うのです。それが、いろいろと欲がでてきて難しいとするなら、自分にはどうしようもない理由でなくなるか、あるいは生きながらなんとか周りに不快や迷惑を与えない方法を考える。生きているけど生きていない感じにできないものかと思っている。
それはそうとして、もし身体と魂という風に人の存在を区分けしてみるとすると、おそらく身体は「更生」できないか、出来たとしてもとても遅れてしまうという人がいるのは事実ではないかと思います。この世に生まれ出て来て人はいろんな環境におかれ、それにより身体は痛めつけられ疲弊することは書きました。その度合いがあまりにひどければそんな刑に値する行動を起こしてしまう身体も出てくる。中には早めに自分の身体のおかした間違いを深く反省することのできる存在もある。でもそれが不可能な身体というものもあると考えると、「この場合は死刑しかない」と思える場合もあるのだと思います。
でも、そんな存在でも「魂」はいつも純真無垢、いつも中立です。死刑という制度はこの魂も人為的に消してしまうことに実際にはなってしまう。おそらく、死刑制度について考える時に無意識のうちにそれを単純に肯定できない理由には、この「魂」の存在というものがあるからではないかと思いました。「命」という言葉に置き換えられることが多いと思いますが。
死刑制度というものはおそらく現在の人が考えだした「法」という基準を超えたものなのだと思います。それを証明しているのはアメリカ合衆国の裁判なんかで出てくる「懲役200年」とかいう無理矢理な判決です。これは死刑を認める気持ちになれないが罪を犯した身体を自由にすることもできないので、ともかく社会から隔離して事実上の死刑宣告をしたという裁判官の気持ちの現れです。そこには宗教的な背景もあるのかも知れない。
これはある意味合理的だと思います。ただ、隔離したといっても生かしているという被害者側や社会的感情からは逃れられない。とすると、僕はやはり死刑制度はまだ法律に記しておいてもいいような気がします。そしてそれを宣告することも当然あっていい。ただ、例えばその執行までの期間を身体が更生することを期待して延長する。そうして更生のために、現在は死刑囚には適用されていないと聞く労役を課す。その期間がたとえば「200年」は必要と考えるとしたら、「あなたの存在をけすが、罪を後悔して苦しむ期間を200年間とする。その間、それに必要な労役を課す」というような判決を採用することを考えてみてもいい時代になってきたんじゃないかと思ったりします。
ともかく、裁判員に任命するのであれば、今現在法を学んで近くそれを行使する立場に立つ人たちに限ること。その前に、一度現在の法の限界について、普段から身体と魂との関係について考えているような人たち、哲学者や倫理学者、あるいは「理科系」の分野でもそうした領域はあるかも知れないので、そんな人たちを集めて議論する機会が頻繁に要るという気がします。
いや、本来書きたかったのは死刑制度のことではなくて、身体と魂というものが合わせ備わって形となっているのが人という存在だと感じることが最近あったというだけの話なんですけれど、つい頭が暴走してしまいました。