写真をクリックするとポップアップするようにしてみました。ただし、比較的最近のブラウザでないとうまく動作しないようです。IE8以前ではおそらく期待した動作はしないだろうと思います。まあでも、こんなブログを見てくださる方もかなり少ないとは思うので、これは自己満足の範疇ですね。
満足といえば、いきなり話題がおおきくなるのですが、僕は僕なりに自分の人生をがんばって生きてきたつもりなのです、これまで。発達障害はあったけれども知的な遅れはなく、受け身的でいつも人をこわがってやってきたので表面上、大きな問題は起こさないけれども周囲と強調して動くことを避ける、大人しすぎる子供時代を過ごしました。
成績表をみると、「大人しい」「もう少しクラスのことをみんなとがんばりましょう」などと書かれていたし、今でも覚えているほどに同様の言葉を教師から、小学校から高校、(表現は違うけれども)大学に至るまで散々言われてきました。前の職場でも僕についてあまり気に入らない人からは「まあ、ここで大声で笑えるようになってから(が初めて認められるということ)やなあ」などとも言われていました。
子供時代の僕は、そういう言葉を受けてもにやにやとして何も返すことができませんでした、そうして大人になってもそれは変わらない。別に本来的におとなしい訳じゃないと思うんですけどね。たとえば子供の頃から明るく活発な弟とよく比較されました。ただ、家の中では僕も弟と同じ程度には話をしていた覚えはあるし、社会との交わりがないところでは弟との言動の差はそんなになかったと思うのです。けれどいったん社会との接点ができると、僕はそこで受け身になって自分の言いたいことも言えずに、人から見ると「へらへら笑って態度がはっきりとしない」子供、あるいは人と見られ、大人になってからでも「それではあかん」と言われたりして、それでも何も言えない。
だって、それが障害があるがゆえだとわかったのはつい数年前のことで、自分でも「あかん」と言われる意味がわからなかったし、正直今でもわからないですけどね。なんぼ「活動的」でも、粗暴で独断的で威圧的な人間より、受け身でおとなしくて何か対していておもしろくないなあという人間の方が、社会的に見れば害悪は少ないんじゃないんでしょうか。
ただ、僕はそうして自分のことがよくわからずに、主張すること少なく、常に受け身で小さな頃から過ごしてきた結果、この社会について非常な疎外感を感じることになりました。もっといえば「憎しみ」と言ってもいい。なぜ、人に迷惑を及ぼそうとも思っていないのに「それではだめだ」と言われてしまうのか。大人しいことの何が悪いのか。人間関係が保てないのは、自分の「努力」も足りないこともあったんだろうけれど、小さな頃から「自分にはそうした特性があるのだからもっとがんばってなじむ努力をしないと」と思わされることがどれだけ過酷なことか、誰かわかってくれるんだろうか。ましてや大人になると子供の頃とは違う、大人としての対人関係が待っています。これは子供の頃のその過程を「クリア」してきた人間なら乗り越えていける「波」ですが、それができてこなかった人間にはもはや押し寄せてくる「津波」のようなもので、避難場所へたどりつけなければ逃れようがない。だから大人になると子供の頃とはまた異質な「いじめ」に合うことになりました。
それでいろいろ長く書いてはみたのですが、それらはもう胸に収めておくべきことのはずです。
今日は、長く開けていた内壁を一番コストのかからない石膏ボードにしようと決めて、外へ出る自信がないので父親にホームセンターへ付いてもらい、ついでに犬も連れてそれらを買ってきました。石膏ボードはもろい反面、耐火性があり、なにより加工がしやすいのです。のこぎりを使う必要がなくカッターで切断できます。それは助かる。
帰ってからボードを車から降ろして、今度は母親を近くの新たなクリニックへ連れて行きました。検査の結果を聴くのに「あんたも一緒に入って」というので、もとよりそのつもりでいたし一緒に入って先生のお話を聞き、今回の症状についてはそんなに心配しなくてもいいということで、これには安心しました。なにせまたこのことが元で病院へということになると今の自分のキャパを越えてしまいそうだったので。
ホームセンターでもクリニックでも、老いた親の振る舞いは確かに以前より衰えていて、父親はレジでお金をどこにやったかがわからず慌てだしたので僕がカードを出して支払うことになり、母親もいざとなると「先生の言うことがわからない」と言います。それでも親がいて付いてくれることが自分の今の支えになっているのだから、それはありがたいことなのでしょう。