最近はほんとうに朝晩逆転のリズムになっています。今日も寝たのは朝だったけれどあんまり眠れずに午前中に起きてぼうっとしていました。おにぎりを食べてコーヒーを飲んで。それで禁断の母親との会話が始まってしまい・・、ただ、もう最近は互いに破綻するのもいやなのであんまりあつくならないようには気をつけています。母親の頑さは年齢を重ねるほどに増しました。それは仕方のないことですが、これから介護度がより上がっていった場合に、このことを今よりもさらに感じることになるのだろうなと思います。
今週はいやな週です。父親の病院での診察があり、次の日は、今度は母親の病院での診察が続きます。どちらも危ういところを抱えていて、先生の話をモニターを見ながら聞くときはいい感じがしません。夏前からうつ、あるいはうつ気味になった原因の大きな一つに、7月のはじめに父親の診察が予定されていて、それまでの一ヶ月間ほどそのことを考え過ぎてしまい、煮詰まってしまったということがありました。今回、嫌な気持ちはあります。けれど前回のように自分がおかしくなってしまうと家全体としてわるい循環になるので、ここは我慢して事実を淡々と受け入れていくしかないように思います。救いはその先に支援員さんとの相談日を設定していただいていることです。親に大きな問題が起こっているようなら、生活上のことはその場でご相談しようと思っています。
今日は壁の修繕もやる気が起こらず、昼遅くから父親と犬の散歩と買い物に出かけたのみでした。しばらく前から父親の車のブレーキランプが片方だけ点灯しないので新しいものに取り替えたのにやはり点かないということがあり、予約もしていなかったけれどお店に行って原因をみてもらったら、ソケットとの接触部にグリスを入れたら点いたとのことでした。一時は配線でも切れたのかと思ったのであんまり込み入った原因でなくてよかった。
「下流老人」という言葉が流行っているみたいです。若い頃からこつこつ働いてきて今年金生活に夫婦で入ってみたら、年金だけでは生活にぎりぎりでそれも節約を相当に重ねないと生きていけない。生活保護を受けようにも「老後のために」と少ないけれども蓄えていたものが残っているのでそれも受けれない。40年あまり仕事を続けてきて、それでも病気をしたり借金を返すのに一生懸命だったりして、いざゆっくりと過ごせるはずの時期にさしかかった段階で生活するのに困る社会。こんなのはおかしいと思います。
だいたい生活が苦しいことを「下流」であると表現すること自体、冒涜的だと思います。もし純粋な気持ちでこの言葉を考えだしたのであれば勘違いにも程がある。おそらくこの「下流老人」という造語は、福祉分野への配分を今後いっそう減らすために、働く世代に焦りを起こさせて「自分たち自身の力で老後はなんとかしないと」と信じ込ませる企みで生み出されたものかと思います。
こういう魂胆に「下流」は乗ってはいけないと思う。配分が少ないのならそれを生み出す工夫を政府に促すべきです。その意味でも、大型母艦を建造したり専守防衛なら必要がない空中給油機を発注したりする「安保法案」の成立など問題外のとんでもなさだと感じています。そんなものに税金を使わないでほしい。
以前、現大阪市長の橋下さんがおもしろい提案をしていました。遺産相続というものがあります。その際に持っている遺産を全国民がいったん国に預け、それを全体に公平に再配分すればいいという提案でした。「朝令暮改」の激しい人なのでこれをどのくらいの本気度で話されたのかわかりませんが、僕自身は極端で、この人的で、でもある意味核心をついたおもしろい発想だと思いました。
親子というのは助け合うべき関係ではあります。一方で個人の自立ということも生きていく上で大切なことです。でなければまた新たな親子関係も生まれてきにくい。僕など後者ができてこなかった典型例ではありますが。
個というものを大切にする社会であろうとするなら、その人生が終わる時に一度その人の築いた富は社会全体に還元されてもいいんじゃないか。もちろんその中に自分たちの子供世代も「個」のひとりとして含まれている社会にです。個の人生が終わる時に一度そのもった経済はリセットする。でも「質量保存の法則」のように、社会全体としてみればその富が消えてなくなる訳ではなく、新たな世代に引き継がれていく。
「そんなの納得できない」「下流の、努力しない人間の言うたわごとだ」と思われるかも知れません。その批判はぜひ橋下市長に向けていただくとして!、そういう発想もありだなと思うわけです。
初期の共産主義思想は全体のあまりの貧困と、富や権力の集中と独裁との対立から生まれました(と、思います。なんせ勉強していないもので。)そして皆が貧困だけれども共同できる間はこの思想は強力でした。ロシア革命が起き、中国共産党は日本帝国主義に勝利し、南ベトナム市民はアメリカ帝国主義とその傀儡政権を倒して独立しました。でもいったん平和が訪れるとこの初期の共産思想はその目的を失って迷い始めた。
人にはいろんな能力があります。でも経済社会で重視されるのはそれを蓄える能力に長けた技術や発想であって、当然その能力には秀でていない人もいる。僕なんかまさにそうです。すると「みんな公平に生きていくべきだから土地を含む資産の私有はやめて、生産物は共有しよう」という発想は、だんだんと受け入れられなくなりました。一生懸命働いてもそうしなくても得られるものが一緒なら何もがんばる必要はない。そうしてソビエト連邦をはじめとした共産主義国家は理想と現実が乖離し崩壊していきました。中国も共産党の一党独裁は維持しながら、個々人の経済的欲求は解放して格差社会を許しつつ経済発展を遂げる方向へ舵を切りました。実質、初期の共産主義思想はその役割を終えた。それは歴史の一過程として仕方がないと僕は思っています。
僕は共産党員でも社会党員でもないので制度の名前なんかは特に何でもいいんですが、実は資本主義もその役割を終え始めているからあらたな仕組みを作り出す時だという人も出てきています。アダム=スミスの「神の見えざる手」により導かれていく資本主義の高度に発達した社会が理想であるという考えも、結局はその過程で公害被害を生む無理な開発がなされたり資源を奪い合う戦争が起こったりした結果、世界的な富の格差は恐ろしい程に広がった。一国を上回る富をもつ個人もいれば、産湯が泥水で、食べ物も医薬品もない世界に生まれてくる子供も大量にいる世界になった。
「日本」という社会はそこまでじゃないと言われてきたし教えられてもきたけれど、果たして「下流」と一方的に呼ばれる層が生まれてきた。一方で十分過ぎる資産をもつ層は全体の2割弱に過ぎないと言われる社会になりました。一応「遺産相続」にあたっては「相続税」というものが発生するので、そこで全体の公平をはかるという話にはなっています。そこでそれを「奪われる」ことを警戒する層の人たちはそのための対策をいろいろと立てるようになった。苦しい行動です。
国も「孫に教育費として金を渡すのなら非課税にする」などといった小手先の政策を作ったりしている。でも現在の富の偏りはそんな次元のものではなくなってきています。若い頃から孤立する人を大量に生み、年齢を重ねて病や経済にいっそう苦しみ、こんなことなら死を選んだ方がマシ、実際に「孤独死」してしまう人がたくさん出てきた。まあ、自分もそれにかなり近い。
ともかくこれはもう社会として制度破綻してきたということの証拠だと思うのです。
それならこうしたらどうか。富を得る能力に長けている人はどんどんとそれを活用してもらえばいい。そして生きている間はその身の丈に応じた、人から見たら「贅沢だな」と思われる生活をしてもいいのではないか。連れ合いをもち子供を育てる楽しみも存分に味わってもらう。
人から「欲」というものを取り去ることは不可能だしそれが生きる源になっているということも確かなので。犯罪にならない限りは持てる能力を生かして人生を謳歌できる人はしてもらう。初期の共産主義思想はこの「欲」の部分を不浄のものとして排したのが失敗だったと思います。
ただ、個の人生が終わる時には、誰もこの世の富をあちらの世界へもっていけるわけじゃない。これはよく言われることです。それならその残された富は一度社会全体に戻す。生きている間、欲も無視して「必ず皆が等しくつつましやかに生活しないといけない」という発想は無理ということはわかった。では欲を野放図に解放してもいいかといえば、それでも社会を安定して維持していくことは難しいこともわかってきた。
「テロとの戦い」の解決は、人がどんな環境に生まれても安心して生きられるだけの最低限の富の配分が世界規模で行われることです。「最新兵器」で「テロリスト」を何人消しても、また新たなそういう人たちが出てくるようになったのは、古い資本主義(新自由主義とほとんど同義のようにも思えますが、これも勉強していないので知らない。)の限界が来たというこだと考えます。
それならここらでひとつ、橋下さん的、ゲリラ的発想で、人生の最後は誰しもが社会全体に対してその余った富を残す社会を目指すのも「あり」かなと思うのです。
別に橋下さんの政治的姿勢を全面的に支持している訳でもないのですよ。F1が御堂筋で開催されるのは一度見てみたいとは思っていますけど。