うつ気味の時には「こころがけない」

ここのところしばらく、ノートもほったらかしでした。考えてみると夏の始まり頃からいかりが出てくる場面が多くなり、それは主に今のことや先行きのこと、親の健康状態などについて「具体的に」考えたり話したりする時にそうなっていたように思います。要するに「なるようになる」「あしたは明日の風が吹く」といった心持ちになかなかなれなかった。これまでは。
けれども人生というのは、今の自分を10年前の自分が想像できなかったように、不確定な要素が多すぎて、どんなに「具体的に」考えようとしてもそれが不可能なことがたくさんあるんですよね。
具体的に考えるほどに、目前に見える材料に乏しいのでおのずと考えられる結論が限られてくる。それでよく言われるのが「今できることをやっていればいい」といった言葉ですが、この言葉も捉えようによっては「今できること」もどの辺りまでのことを言うのかで迷ってしまったりします。犬の散歩にもでづらい。生活リズムがくるっている。重苦しい感じにおそわれることがよくある。物事に手を付けるのが以前よりもさらに億劫になっている。そんな時に「出来ること」とは何だろう?と思ってしまう。
父親があまり出ないのを心配して夕方の犬の散歩ついでに買い物に誘って来たりします。応じられる気分のときもあれば無理ということもある。ここのところ、応じられる確率が増えてきたような気がします。ゆうべは診療所への付き添いもあったので、この付き添いにだけは両親ともに必ず応じることにしています。特に大きな病院へ行くときには自分しか親を送っていくことができない。けれどもそんな「親の状態をみていくのが自分しかいない」という思いが、夏の始まりからのいかりの出やすい状況も作って来たのだと思っています。これは「親不孝」かどうかというような次元の話ではなく。

人から見れば「別にそんなにまで気にしなくても、デイにも行ってはるしよく動いてはる」ということになるかと思うんですが、高齢者の「動けている」というのは、若い人間の「動いている」のとは全然違う。それは下地として動くための医療や介護の積み重ねがこれまであったからだし、今もあるからです。
ずっと前に読んだ銀色夏生さんのエッセイの中で「それはそうだなあ」と思ったのは、「人は歳を重ねていくにつれて「健康=生きること」になっていく」という言葉がありました。若い頃ならば無理な生活を送ってもそう簡単にくたばらない。いわゆる「不健康」な生活状態・習慣が続いていたとしても、からだはそれに耐えられる。でも年齢を重ねていくと「不健康」や無理なことにからだが耐えられる範囲が狭くなってくる。最終的には「健康(的な生活)であることがそのまま生きること」になる、というような内容でした。
うつ気味になって感じたのは、この高齢者の状態に自分が近くなるということです。といっても今も中年域ではあるので、ずっと若い頃に比べると「不健康」のできる幅は狭くなってはいるのですが、そこにうつといった状況が重なってくるとそれはもっと狭くなる。生きていることは出来るけれどもあんまり動けなくなるし、物事に対する関心や感動も薄れてきます。好きだったマック、好きだったカメラ、春には出来ていた犬との日中の散歩、絵を見に行きたいと思っていたこと、ドラマを見ることもめんどくさくなる。できなくなってくる。それでも平和に寝ていられるといいけれど、夜はもともと遅くまで起きていたのと重なってなかなか眠れない。仕方ないので起きているとじりじりと重苦しい感じが起きてくる。誰かとこころのうちを話したくなってくる。こうしてキーを叩いたり、まして文字を実際に書いて気持ちを整理するということがしにくくなるのです。
今は比較的気分がいいのでこうして久しぶりにキーを打っていられるけれど、夜になるとどうかはわからない。ただ前のノートで書いたことですが、以前と違って感情が平坦になった分、とてつもない不安やとてつもない哀しさからはやや遠ざかっている気がする。ひどく焦燥感に駆られていた部分がうつ気味になったおかげ?で感覚がにぶくなっている気もする。これは考えてみれば「良い点」です。ただ、少しの周囲の変化でその平和はもろくも崩れさるのだとは思うのですが。
うつのときにはあんまり刺激を受けない方がいいと思う。「規則正しい生活、適度な運動」というのも頭では理解できるけれど、それをあんまり意識してしまうとそのこと自体が「刺激」となって自分を刺してきたりします。
なのであんまり「心がけたり」「急に実践したり」もしない。これまでの不規則な生活リズムも自分にとっては気持ちを平和に保つために必要だったのだと思いながら、できれば物事への興味を取り戻していきたい。この二日間は夜は横になりながらスマホをいろいろといじっていました。そしてその効率はすごく悪い。でもだいじなのは何かが出来ること。
僕は40代に入ってかなりからだに負担をかけてしまったと思います。30代までは体を動かすことが、仕事なんかを通じても割と多かったのに、30代後半から座り仕事になりパソコンをじっと見つめて深夜まで作業することが多くなった。少なくとも5年以上は家で過す時間が減り、食事もおろそかになり、お風呂にも入る回数が減って「不健康」な生活になりました。それが負担に思えたので逆に一般の事業所へ転職したんですが、そこでは発達障害の特性のわるいところを良く感じるようになった。診断を受けることになり、向いていない環境にいるんだなということがわかりました。同時に親の健康状態がわるくなっていった。振り返ると自分にとっては気持ちとしても体力的にも無理なことをしていたんだなと思います。
そう考えると、これまでになく「休んでいる」この期間は、自分にとっては必要なことなのだと思います。

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