生活リズムが不規則なのとうつの傾向にかたむいていることもあって、以前にも増して外にも出れていません。先生に「うつやわ」と言われてから最初の一週間ほどはむしろパソコンにも向かっていたし頭も活発に働いている気もしていたけれど、文章が書けなくなってきて、そして外に出るのがほんとうに億劫になりました。
それと、物事をわるい方へわるい方へと考えてしまう。外からの刺激を受けるとそれが即、自分の中でわるく受け取られてしまうので、外出が億劫になるのはそれが原因かなと思います。逆に、自分がしたことが人にわるいことをしたという風にも感じられる。それを避けたいためということもあるように思います。
この間人から「短気?」と尋ねられました。僕は小さな頃から癇癪を起こすことがよくあったし、家の中では短気な面をよく見せていたように思います。ただ、実際人と接する際には何をされてもへらへらと笑っているような子供でした。
思春期の頃、部屋ではよく暴れていました。親に手を出すことは一度もなかったしそんな気も起こらなかったけれど、壁をけったり床を踏みならしたりよくしていたので、今でも蹴って開いた穴を補修した部分や壁の割れがそのままになっているところもあります。
「短気」が人に対してよく出たのは、車の運転を覚えて慣れた頃でした。車というのは、以前の主治医が言うには「鉄のよろい」を着ているようなもので、普段は出せない感情をアクセルの開け方ひとつで簡単に出せてしまう機械です。まだ精神科にも関わらず、ましてや発達障害のあることなどわからなかった20代の頃など、僕の運転はお世辞にもマナーがよくありませんでした。人と不具合を起こした事も何度かあったし、命にかかわるようなこともしたことがありました。ただ、年齢を重ねるにつれてその頻度も少なくなり、決定的だったのは発達障害がわかってから頂き始めたお薬を飲み始めてからです。もうひとつは主に同乗する親が高齢になり、診療所や病院への付き添いが主な運転の目的になったということもあります。
「短気」ということとは別に、「恨みがましい」ということはあるかも知れません。これは「わるい記憶を長く持ち続ける」という特性と関連しているんじゃないかと思います。(まあ、なんでも障害と結びつけるなという批判はあるかと思います。)でも、定型の人ってときどき怖いなと思うことがあるのは事実です。
近年だと、たとえば以前いた施設では働きはともかく、9時から少なくとも7時頃までは仕事をしていました。それが週に5日なので労基法に定められた時間はお昼休憩の20分ほどを除いても超えていたということになると思います。でもそこは特に「恨んで」いるところではありません。福祉施設だから残業代も福利厚生もないのは当たり前なのでしょう。そして何より自分に能力が足りなかったとは思っています。
ただ、どうしてパートの方が「(疲れで)顔色もおかしいよ」と言われる状況になってからも長くそんな状態が続いたんだろう。そして僕の工賃が高いと、誰もに嫉妬されることになったんだろうというところです。それは直接言われたわけではないけれど、後から考えてみて思い当たったことでした。
おそらくそういうあたりから、障害者枠の就職説明会場で施設に出入りされていた支援員さんからも「あなたが辞めたら所長さんに迷惑をかけるよ。民間はあんたが思ってるほど甘くないよ」と耳打ちされる結末になったんだろうと思います。
わからないのは、そのずっと後、やはり仕事が続かず障害者職業センターやハローワークに関わりだした時に、以前、就業支援員さんから、あの場でああしたことを言われた意味がいまもってわからないと話した際に「それを(今私に)言うことであなたの気持ちが収まるのであれば(後はそっとしておきましょう)」という態度だったことです。正確にはハローワークの担当の方は最初、このことを問題視して下さっている気配がありましたが、やはり時間が経つにつれ、同じような感じになっていきました。
たとえば、仕事について、あるいは相談をする際に、どんなことでもわからなければそれを言葉に出してみる、「伝えてみることの大切さ」を相談員さんは最初に説明されました。でも、それにも「例外」があるのでしょうか。先の支援員さんの件は事実上、「なるべくあなたの中で納めて」ということになっています。もう今更何をという感じなのかも知れませんが、おっしゃることと現実とが離れていると戸惑ってしまいます。
あるいはもっと前のこと。別の施設に関わる前はある団体の役員をしていました。自分が一般の事業所で行き詰まり次の段階を模索していた頃、新しい場を作ろうと呼びかける方があり、その呼びかけと同時にそれまで名簿でしかお名前を知ることのなかった方とも初めてお顔を合わせるようになりました。もう何年も「この方はどういう方なんだろう」と想像していた人です。市町村合併で無くなった自治体の議員をされていた。「もう家族も集まらないし、新しい場所づくりでもしないと」というお話でしたが、実際にご家族の参加は減っていたけれど、逆に当事者の参加は増えていました。役員のなり手がないので困ってはいましたが、会が存続できないほど会員も減っている状況ではなかった。逆に増えていた。
そして新たな場はでき(それまで何度も文書を作ったし、設立の呼びかけや会場の確保、全ての準備の会合も父親とともに参加していました。)僕は最後の一年ほどそこで職員にもなりましたが結果的に能力不足で辞めることになりました。その時に、当初場作りを呼びかけて来られた方から「あなたは非常に無責任」と言われたのは深い傷つきととともに今でも心に残っています。けれども自分の危険性を感じていたので辞める半年ほども前からご相談はしていた。
そして、少なくとも新たな場作りのきっかけになった会を、その方が以前言われていたように「もう家族なんか集まってこないのだからやめたらどうか」という言葉を受けて維持していなかったとしたら、会計も名簿の維持も決まった行事も放り出していたなら、新しい場ができるには少し手間がかかったかも知れない、とも思うのです。
ここには書けないし、書こうとも思わないこともいくつかありました。主にそれらが辞める原因の大きな要素となっていました。
自分が向いていない仕事に就こうとした愚かさは仕方がないとしても、その場づくりの段になったら突然積極的に出現されて、途中、不満を覚えて距離をとられたり、自分の必要を感じられるとまた前面に出て来られたりして最終的にはそれをきっかけにお二人ともが別にもうひとつ作られた施設とともに、それぞれの長に収まっておられます。
実際に在職中、さまざまな不具合が発生するたび僕はその方々に頼る部分が大変多くご迷惑をかけたことを否定はしないのですが、もしご自分で施設を運営されたいのであったなら、できればその大元になった会運営の頃からの積極的なご参加があったならと今更思ったりします。あるいはご自分で新たに母体を作られてもよかった。けれど会の大元を作っては離れてその維持には参加されず、いざ新たな場作りの話となればその会を利用されたという印象を、その時の僕は持ったし、今も持っています。
「定型」の方は事に当たって俊敏で、考えも行動も先を読んでということが生まれつき出来る方が多い。一方で僕は事に当たっての俊敏さはほぼなく、また、先を読んでの行動も苦手です。計画的にやりたいと思ってもそうできないことが多い。
発達障害者は定型者からある意味「利用」される面も多いのではないかと感じます。子供の頃から大人になってからに至るまで。
わるい意味で今の状態だからこそ書けることを書きました。
診察も行くのが億劫で延期していただき、車の点検にも出かける気にならずキャンセルしました。今出来るのは食器洗いぐらい。けれどここ数日、父親が犬の散歩ついでの買い物に誘ってくるので、自分でも今のままではあんまりだと思って車を出し、公園で犬と自分の散歩を兼ねて歩いたりしました。もうしばらく撮ることのなかった写真も撮ってみました。女の子たちがシャボン玉を飛ばしては笑い、男の子たちは草わらを走り回っていました。