母親のことでデイに連絡をとり、父親のことで病院に連絡をとり、などしていたら次第に憂鬱になってきたので、無理にでも出かけてそんなことを少しでも忘れようと思った一日でした。今、ルーブル美術館展をやっているのでいずれそれを見に行くつもりはしているのですが、「絵をじっくりと鑑賞する」ような気分に今すぐにはなれないでいます。美術館の持つ雰囲気は好きなのですが、あの落ち着きが今の僕にはかえって自分の気持ちをいっそう不安にするような気がします。
ともかくも夕方遅くに行ってみたら、美術館周辺は人が多くてたいして落ち着いてもいないようだということはわかりました。けれどやっぱりまだ絵を見る気分にはらないないので、どうしようかなと考えて、まだ一部が新装準備の工事最中の動物園に入ってみることにしました。「サル山を見ていると落ち着く」とかいう話も聞いたことがあるし。
動物園や美術館は障害者手帳が役立つ数少ない機会です。手帳は、たとえばそれを保有すれば自動的に年金もおりるとか、そうした実質的なものでないといけないと僕は思うんですが、今はただの「各種割引券」にしか過ぎまないような気がします。生活の、主に余暇部分を支援する手帳。こんなものはお金持ちが持てばいっそう心も安泰になるのかも知れないけれど、お金をもたない者にしてみたらたとえ割引の結果が無料になるにしてもそこまでの交通費も必要だし、いつも利用する際には別の不安がつきまといます。基本的な生活を保証しないままで余暇だけ楽しめというのは非常に残酷!な制度だと思います。
自治体や会社によっては、手帳の提示で診察時の交通費の割引が受けられる場合もあるようですが、そもそも僕は公共交通機関が苦手です。それは障害の特性から来るものです。身体障害者であれば無料のタクシー券の配布や、有料道路の割引制度などがあるようですが、精神の手帳ではそれはありません。調べると精神の一級の手帳を持っていると自動車税の減免が受けられるようです。でも一級の認定を受けつつその恩恵を受けている人の実数ってどのくらいなのだろう。一度そうした統計をまとめて公表してもらいたいものだと思います。
精神保健福祉手帳制度が施行される直前、これに賛成する人たちと強硬に反対する人たちとの間で溝が深まった時期がありました。僕はそのどちらの側にも接したことがあります。周囲の、温和な患者家族会の人たちは、これが実現すれば身体や知的障害者と同様、精神障害者もまさに「障害者」として認知され、各種社会サービスも幅広く受けられるというお役所の言葉を信じて賛成の署名活動などもされていました。
一方で、古くから、偏見を受けてきた側としての精神病者を自認する人たちは、強硬にこの制度に反対をしていました。これがやがて任意の取得ではなく、各種サービスを受ける際に所持を強制されることになるだろう。その時、より自分たちへの差別意識が高まることになるといった論理が、その方々の中にあるようでした。
ある時、手帳制度の説明会にホテルまで出かけたら、会場としてあてられた部屋や廊下がそうした考えの方々に占拠されて、説明に向かう厚生労働省のお役人が途中で行く手を阻まれ、とうとう会が開けなかったという現場にも立ち会いました。
僕自身は施設の利用や障害者枠での雇用の際に手帳が要るという説明を受けたので、単にそれが目的で先生に話してみたら取得はできたのですが、先に記したように今に至っても「これが生活上必ず欠かせない」というものにはなっていない気がします。まして精神障害の範疇に発達障害を含めてしまってのことなので、それにも納得がしづらい。
ところで矛盾した話なのですが、僕は広汎性発達障害の診断を受けてから、まだしばらく仕事をしていた間、自分の障害されている部分を把握する余裕がなかったような気がします。
仕事を離れてしばらくしてから、どうしてか診断して頂いたような内容を生活の中で感じることが多くなりました。反応を求められてからの自分の動作がにぶいと感じること、相手の本意がよくつかめないで混乱すること、方向感覚がよくないこと、いったん狭い範囲に思考の焦点を当てるとそこに必要以上の注意を向けるので疲れること。その他いろいろ。
それをこれまで僕は加齢のためかなと思っていました。30代の頃なら勢いでできていたことが、今はできない。40代のときなんとかできていたことが、やはりできなくなっている・・だから年齢を重ねるほどに障害されているところがよく現れてきて、そしてこれからもその傾向がますます進むんだ・・と思っていた。それはもしかすると当たっている部分があるのかも知れません。実際身体的能力は明らかに落ちてきているのだし。
でも、ふとこうも考えたみたのです。
仕事をしている期間というのはその対象に向かって自分が精一杯、苦手な部分も含めて能力を出そうとがんばっている期間です。なのでとても無理をしているところがあるものの、その代わりになんとか出来ることもいくつかはある。そういう期間。もちろん失敗はそれ以上に増えるので傷つくことも多いのですが、日々の忙しさに紛れてそれらをよく「分析」することもできません。
でもいったん義務としての仕事を離れると、時間にも望まない人との関係などにも拘束されないことが多くなります。そうすると身体は緊張から放たれて「無理をしない自分」というのが表面に現れやすくなる。だから診断で示された苦手な部分が日常生活の中でよく見えてきて、自分でもそれがわかりやすい状態になっているのではないかと。あるいは安心してその特徴を出せる時間が多くなっているということかも知れません。ともかく、ふとそんな思いが浮かんだのでした。
動物園はまだ工事をしているところが多く、快適に園内を周るには少し早い気がしました。第一今日は湿度が高くて、動物も疲れているし人間も疲れる一方。どちらも見つめあっては「暑いなぁ」と、もし意思疎通ができるのなら話してしまいそうな、そんな日でした。
写真はどれもnexus5で撮りました。この機体のカメラの特徴がだんだんと掴めてきた気がします。まずあまりにも明るい場面での色合いは青にころぶ傾向にあること。光があまりに強い今の時期、特に青空なんかを背景にする場合など、空が見た目以上に真っ青!に映ります。その青は、僕にとってはややきつく感じる。それと、レンズ周辺部(そんなに大きなレンズではないけれど。)の映り方が甘い気がします。これも光が強い時ほどその傾向が大きくなる気がします。
あと、これは元々が広角度の取れるレンズを使っているので仕方のないことなのかもしれませんが、特に機体を横向けにして撮る場合やパノラマ写真をってみると、レンズの端へ行くに従ってまっすぐなものがまっすぐには写らずに、やや歪んでしまう。
もうひとつはレンズ周辺部での白飛び(光が多く当たっている部分の階調が出ずにベタッと白く写る。)が目立つ気がします。
逆にそういう苦手な場面をなるべく避けることを意識しさえすれば、このnexus5のカメラ機能も以前もっていたiPhone5cにものすごく劣るということはない気がします。レンズの特性はどうしようもないこととして、もしホワイトバランス(周辺のお天気などに合わせて色を自動調整する機能)や露出(光の取り入れ方の割合?)がもうちょっと細かく調整できるカメラアプリがあれば、その足りないと思える部分も補える可能性はあるのかなと思います。
もし今の標準カメラアプリを使い続けるなら(これはこれでiPhoneになかった機能も備えていたりするので。)、緑色が見た目に似た状態で撮ると、割合満足できる結果が得られそうな気がします。これから撮る時には、そのあたりを意識して撮ってみたいと思います・・・といいながら、実際は「あ、いい光景」と思ったら撮っているという状況は、もう変わらないんだろうなあ。