久しぶりに海を見たいもんだなあと思う。それも穏やかな青い海・・・ではなくて、「もう自分でも何をどうしていいかわからん!」とでもいうように白波を高く上げて激しく荒れた海を見たい。
たぶん、今の自分がそんな心境だからかも知れない。ただ、波しぶきを高く上げるほどのエネルギーが、今の自分にはない。なにせこの前の記事が「理想を追わない」というぐらいのものだ。自分にエネルギーを感じないのだけれど、どの方向に向かうのかがわからない苛立ちや焦りやこれまでの憤りやらがこころに「怨念」みたいにしてあるのは感じる。
でも今は車を走らせて海まで行く力は出てこない。まあ、第一ガソリン代をもったいないと思ってしまう。近県まで走れば見れるのにそれさえもったいないと感じなくてはいけない状況がなさけない。
去年の夏の終わり頃、両親の体調もひと段落しているようだし、自分の気分も少し外側に向かい始めているように思えたので、たとえ一泊でもいいからどこかへ撮影旅行みたいなものに出かけてみようかと、あの時は本気で思った。それを発達の支援員さんに話したらそれはいいと思うと賛同してもらえもした。ところがその後すぐに母親の体調が不安定になり入院することになった。以前見慣れた病室に通っている間に夏は過ぎていき、母親の状態もなかなか安定せず入院生活は長引いて、付き添いや、先生のお話を聞いている間に、しばらく前思い立った「撮影旅行」計画など、どこかへ飛んで行ってしまった。
お金があって毎日のヘルパーさんや訪問看護が頼めて、それを母親も拒まないのであれば、なんぼ心配性で出不精の自分でもまだ「合間を見て出かけよう、今こそ気分転換の時じゃないか!」となったのかも知れないけれど、待っていたのはなかなかデイサービスに行けない母親の食事内容の心配やら(病院の栄養指導で見本として渡された、カロリーの管理されたおかずの宅配を奮発して一ヶ月分頼んだけれど、結局母親はあまりそれを好まなかった。)インスリンの注射やら、頻繁になった通院やらだった。でもそれは母親のせいではないのだけれど。あくまで無理を強いて使い過ぎてきた体がいたんでしまったせいではあるのだけれど。
その合間は父親の通院と検査でしんどいことを聞かされて、やはり心配が先に立って落ち着くことのできない日々が続いた。こちらもまた、父親のせいではないのだけれど。
年初のおみくじで出た「平」の言葉のとおり、なるべく気持ちを平かに保とうとがんばってはきたのだけれど、それはがんばる類のことではないのだったなあと今更に思う。そこで僕に出来たのは「あきらめ」をより一層覚えることと、先に期待しないということだった。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もある。けれどなかなか身を捨てることもむつかしい。
美術館でルーブル展を開催しているらしいので、一度それでも見に行こうかとは思っているけれど。そういう落ち着いた気分では今はない。
エネルギーが枯れている・・・と思いながら、依頼作業をなんとか区切り近くまでやったものの、それさえ細かく間に休みを入れていかないととても落ち着いてできる感じではなかった。このまま大きな変更なしであればいいなと今はそれを願っている。大きな変更に今の自分の気力はついていけないような気がして。それでもやらなければいけないのなら、それはやるけれど。