定型人のウソ

変なタイトルになりました。発達障害と対の人たちのことを「定型発達」者と呼ぶことがあるそうです。要するに世の中の多くの人がそれに含まれることになります。発達障害者はウソをつくことが苦手だと言われます。たとえば人が絵を描いている。それを前にして普通は「上手だなあ」とか言うもの。それをいきなり、「なんか実際とは違うように見える」と言えば描いている人によれば不審に思い、もしかすると不快に感じるかもしれない。けれどそれを言っている当人は別に相手の絵をけなしているわけではないのです。そう自分に見えるという事実を話しているだけ。
僕は(自分もそうなのですが。)花粉症なんかで人が鼻をクシュクシュしているのを見るのが我がことのように辛いので、これまでそういう場合にティッシュを出して「どうぞ使って下さい」と言うことがよくありました。けれどほぼ100%の確立で相手の方は「いいです」と断られます。これをなんでだろうと今でも不思議に思っています。おかしいな。おそらく相手の方にしてみると、なんだかそれはおかしな行動なのでしょう。本当に身近な人でない限りは、「ああ、どうも」とティッシュを使う気にはならない何かがあるのでしょう。
これらのことは「ウソ」とは関係のないことのように思われますが、いい意味で相手の気持ちを損ねないようにしている定型の人たちの「配慮」というのがあるように思われます。つまり、こころの中の自分の意図とは違うのだけれど、その通りにすると相手の気持ちを損ねる恐れがあるからその通りには言わない、動かない。いい意味での自分に対する、あるいは相手に対する「ウソ」というものがあるような気がする。

思ったこと、感じたことをそのまま行動に移してしまいがちなので、それが相手に不快を与えて「敬遠すべき人」となってしまう面があったように、自分について思います。でも反面、それはどんな人にも率直に対してきたというだけのことです。事実でないことをなるべく言ったりしたくはないというだけ。
京都言葉でいえば「あら、もう帰りになられるの。お茶漬けでも食べていかれへんの?」というのが定型の人の「ウソ」で、それが互いにわかれば「いやぁ、次の用事もあるので〜」というのが答えとして正解になる。ところが僕の場合は「あ、そうだったんですか。それは悪かったですね。食べていきたいけどどうもお家に上がるのも恥ずかしいので止めときます」と、返答がえらく「まとも」になってしまう。もう少し対人緊張が低ければ「そうですか。じゃ、せっかくなので」と、居残る可能性が高い。
その逆もまたありで、相手の人が「お礼に食べて行って」と本当に思って言ったのだとしても、自分が「お礼を期待してのことではないので」と信じてした行動ならば、「いえいえ、そんな、とんでもない」と答える。そうすると相手の方からしてみれば「せっかく用意をしたのにどうして拒否されてしまわれるのだろう」と残念に思うか、もしかすると不快に感じられるかもしれない。でも自分としては「本心をそのまま話しているだけなのにどうして残念がられるのだろう?」となってしまうわけです。
まだ小学生の頃、友達の家に遊びに行ったときにたまたまケーキセットを差し出されて、「どれでも好きなんを食べて」とその子のお母さんに言われたのですが、「僕、ケーキ、苦手なので」と言ったら、「いやぁぁ、ケーキが苦手やて!」と大笑いされたことがありました。でも子供の頃、人の家に上がるとまず緊張して喉が細くなるような気がしたものだし、それに生クリームのむっとした感じが本当に自分の舌に合わなかった時期があったのです。だからそのまま、本当のことを言ったのですが、その時はさすがに「これはおかしな子供だと思われるだろうな・・・」とひそかに予感はしていたので、果たして!と恥ずかしく思ったものでした。
体験を重ねるにつれ、「こういう場合はこんな反応をするべきなんだな」と「学ぶ」機会は増えて、今度は逆に「こうすれば相手にもっと喜ばれるのではないか?」という思いが出てくるようになり、さて実際にそうしてみたら不審どころか呆れられたり、場合によっては怒られたり。率直過ぎてもダメだし、考え過ぎてもダメ。ほどほどな「ウソ」の付けるようになることが、この世間をなるべく穏便に渡っていける術のようです。

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