
なるべく刺激の少ない生活をしようと思っている。安普請の家なのでよく聞こえてくる外の人の話し声やら車の音をなるべく聞かなくて済むように作業中のMacには夜中に向かうようにしている。それでも夕方からは買い物とごはんの用意があったり、昨日付き添った母親の薬をとりにいかなくてはいけなかったり犬の散歩があったり、それなりに外との接触がどうしても起こる。
この間からネットともだちに教えられてKindleにはまっている。Amazonが運営している電子書籍をスマホのアプリとMacとで同期して読める。これまでスマホで電子書籍を読んだことは何度かある。けれど無料であることが大切!なので、それらはたいてい青空文庫で、しかもアプリも組み合わせて使う必要があったりしてなんだか集中ができなかった。
ところが、やっぱり元は青空文庫なのかも知れないれどもAmazonからKindleに試しに落としてきた「我が輩は猫である」をスマホのKindle appで読み始めたら、あら、面白い。ずっと以前、自分の診察のために病院の待ち合い所で本を読んでいたときと違って情景や心情が猫の言葉を通してすんなりと入ってくるように感じられる。考えてみるとここ数年ずっと、実際の活字は頭に入りづらくなっていたけれども、パソコンの文字やスマホのそれにはあまり抵抗がない。自分の情報のとり入れ方が変わって来たのだろうか。
「ツレがうつになりまして」を観ていると落ち着くと書いたけれど、原作本も読みたくなって来てやっぱりAmazonで探したら中古の単行本が続編も含めてどちらも1円だったので衝動買いした。送料の方がよほど高くついたけれどワンコインで済んだので、まあ、いいかと。既に映画を観ているので本を読むと映画の光景が想い浮かぶ。ほとんど漫画で描かれているので読むのに負担が少なくて、夕食後の二時間足らずで読めてしまった。
それで思ったのは、本だとどうしても「うつ」という病気について説明的になっていて、読んでいて今の自分にはちょっとしんどい部分があるということ。映画の方はその病気の説明をしているわけではない(そういうシーンはあるけれども。)ので堺雅人や宮﨑あおいを始めとした役者さんの演技のうまさを楽しめたり、背景となっている家や光景を楽しめたりすること。主人公が感じている生きていることの申し訳なさやに共感したり、そこから、時にまるで正反対の人間になったように生きていることへの憎しみ、怒りさえ覚えることのある自分を連想すること。
なぜせっかく生まれて来たのに、この年になってもまだ先行きを具体的にどうしたらいいかなどと考えなければならないのか、経済をどうしよう、親の健康はどう推移するだろう、介護をどうしよう、自分の健康はどうなんだろう・・・と悩みが尽きないこの怒りはどこに、何にぶつければいいのだろう。なぜ「刺激を受けないように」ひっそりと息をひそめてなるべく外界との接触を避けて暮らしていかないといけないからだになっているのだろう。
どうせなら、繰り返し思い出される過去のいやだったこととか、人の自分への拒否的な態度だったりとかではなく、興味の向くことでエネルギーを消費したいと思う。嫌なことは薬でも認知療法でもなんでもいいからなるべく頭の片隅に押しやって、自分が触れて心地いいと思えるものを増やしていきたいと思う。
イラストレーターやフォトショップがもっと使えるようになればなあと思って自分なりにネットで調べ物をしたりすることもそのひとつだし、読書ができるようになるのなら、それが電子媒体であっても構わないし、カメラも、今あるものでこころに触れてくる光景を残す道具として維持しつつ、よりそれがうまくできるようにもなりたい。
そのためにも、自分にとってわるい刺激をなるべく受けなくする工夫を、どうしても見つけていかないといけないと思う。