久しぶりに、「自分の樹」と決めているあの樹に会いに行きたいけれどお金がもったいなく感じて仕方がない。実際そうなのだからそう感じて当たり前なのだろう。
以前、自民党政権が民主党にひっくり返されそうになった時、何とかそれを回避しようと時の総理の麻生さんがいくつかの策を決めた中に「ETCを使えば高速道路をどこまでいっても1000円にする」というのがあった。あれはよかった。もっとも当時民主党が高速道路無料化を公約に掲げていたのでその対抗策という意味もあったのだろうけど。ともかく自動車が移動の主な手段の自分にとっては都合がよかった。(ETCの仕組みを作っている組織自体は天下りの盛んな組織だとどこかで読んだことがあるように思うけれども。)
当時は両親も、今のように次々と体の不具合が見つかるというような状況でもなかったし、遠くへ車で移動しても宿泊代分なんかをちょっと節約することがまだできた。もう今は親に長距離を移動させることは無理だし、病院に行くのでさえしんどそうにする。10年経つ軽自動車だし、揺さぶりが強くて余計にしんどいのだろう。少し高かったけれども低反発素材で作った、座席に装着して腰と背中を支えるクッションを助手席に取り付けたら、それ以前に比べて幾分車に乗るのが楽になったようだった。両親を一緒に乗せるときもあるので、できればそれをリアシートにも付けれたらいいのだけれど、高いのだよなあ。
それはそうとしてこの夏の想い出に一度はあの樹に会いに行けたらいいのに、と最近よく思う。でないともうこの夏は何もしないままであっという間に過ぎ去っていきそうだ。日中は暑くて、明るすぎて、起きても何もする気が起こらない。今日など夕方近くに起きて両親の分も含めてご飯の用意をし、食べてしばらくテレビを見てから夜も遅くにスーパーへ明日、明後日の分の買い物に出た。若い頃は夜遅くや朝早くに車で外へ出るのは数少ない楽しみだった。でも今は、遊びで車を出すということはとても贅沢なことになっている。まして家に高齢の親がいることを思うとあんまり勝手なことができないとよく思う。
これまで言うだけで何も進まないことが多かったので、しびれを切らして自治体がサイトで配布しているエンディングノートをダウンロードして印刷し、とりあえず父親に少しずつ必要なことを尋ねながら記入していくことにした。実際、たとえば入院していた時など医師から決断を迫られて当惑したこともあったので、そういう深刻なことも含めて今、親がまだ安定している間に聞けることは聞いておいたほうがいいと思って。特に自分の場合は何かと目で見て分かる記録を取っておかないと後から思い出そうとしても頭の中が整理されていないということがとても多いので、好む好まないに関わらずこうしたノートがあった方が助かる。
興味深いのは自治体がこうしたノートを製作してダウンロード可能にしていることで、一般にこの手のノートは市販品もたくさん出ているけれどもその「ブーム」に便乗してお役所がこれを作るというのは、いざという時に何かと問題が起きる場合が出てきて、それに伴って自治体への相談数が増えているということの反映でもあるのかな?と思いたくなる。
ともかくうちは父親の興味の対象が広くて物が割と集まっていたり、いくつか植物を大事に育てていたりするので、そういうものの扱いについても聞いておかないと困ったことになりそうな気がする。そして恐らく親自身もそれはまだ何も決めてはいないように思う。それならノート作りをきっかけにしてそういうことも考えておけたら、完全なものにはならないにしてもいいんじゃないかなと思う。
ここ一週間ほどは治まっている耳鳴りがこれまで経験したことのないものでやっぱり気になっていたのでお医者さんに行くことにした。まず耳の穴の中を観察してもらって特に何もなく、今度は電話ボックスみたいな防音室に入っての聴力検査や耳に機械を当てての鼓膜の検査を受けたりした。結果、耳の機能に特に異常はなくて、耳鳴りの原因として考えられるのはストレスだというお話だった。なので「あまり考えずに、気楽に」ということで終わったのだけれど、エンデンィングノートを付けるのに親に協力してもらわないと困るという今の状況で「考えずに気楽に」という感じでは、あんまり自分はいられないなあと思いながら。
けれど少なくともこれで「この耳鳴りはもしかすると大きな聞こえの障りに発展したりするのかな?」という不安はなくなった。いや、実は不謹慎な話だけれども、聞こえの障りで必要十分な年金でも受けられるのならそうなってもいいや・・・と思う瞬間もあった。聞こえないということがどれほどの絶望かということも想像できないままに、本当に非常識な話だとは思いつつも、今のような状況ではなく、聞こえの障りであれば周りの人から理解が得やすくなるかも知れない、これまで冷たかった親族にも同情されることになるかも知れない・・・そんなことが頭をよぎったことがあることは書いておこうと思う。
この間、三ヶ月ぶりくらいに1000円カットのお店に行ったら、今度もカットしてくれたのは女の人だったけれども、この前の人と違ってこちらにとても配慮をしてくれる人だったのは嬉しかった。去年の同じ頃にもそんな人に出会ったけれども。
そういう人はまずこちらの生活の様子なんかには干渉してこない。平日の昼間に行っても開口一番「お仕事、今日はお休みですか?」などと聞かれることがない。自分の仕事であるカットの事だけ考えて、「どんな風にしましょう?」とだけ聞いて来られる。こちらが言うに事欠いていると「こんな風にされたらどうですか?」と逆に提案してもらえたりする。
髪が一部薄くなっていたり白髪を放りっぱなしにしていたりしても、「ここが少し薄くなっていますね」とか「染めたらどうですか」などという事も話されない。むしろ「髪の量が(部分的に)多いですね」とか、「白髪も染めると内臓に悪い場合があると聞いて私も染めていないんですよ」などと、こちらが聞いて不快でない言葉を出して来られる。母親がデイサービスへ行くのにどうしても白髪を気にしてたまに自分が染めてやることを話すと、「偉いじゃないですか」と褒めてもらえる。そうして自分もまた商売柄母親の髪の様子を見てしまい、白髪を気にするとつい染めてしまうと自分の家庭のことは話される。「一体、自分が歳をとったら誰が面倒見てくれるんでしょうねえ。その時にはいっそ自分がボケてしまっていたらいいのに、と思うんです」と笑いながら話される。最後までこちらを決して不快にさせないああいう商売が本当の商売、仕事というものなんだなあと思う。あれは相手をただ褒めていればいいという次元のことではなく、人間性に関わることなので。
僕は17の頃から一部白髪があったけれども、さすがにこの年齢になってきてそれが目立つようになってきたし、とうとう後頭部も目立って薄くなってきた。がっかりしたりもするけれど、それが時の流れというものなんだから仕方がないなあと思ったりもする。一番自分の年齢の進んでいるのを感じるのはテレビで以前自分より少し上の世代の人として見ていた人たちに老いの兆候があると感じる時。それでいて好んで見聞きするものは自分の年相応のものでないことが多い。