暖かくなってきたので久しぶりに部屋の修繕。天井板(実は安物の、模様の入ったベニヤ板)を貼るところをやっている。これが結構難儀。何しろ天井なので作業台にしている机に乗って上を向いて作業しないといけない。薄いベニヤ板は持ち上げるとすぐに両端がベロンと下を向いてしまって枠に固定しづらい。両面テープだけだと落ちてこないか心配なので釘やネジで留めないといけない部分が出てくるのも面倒。
ただ単に水が侵入してダメになったところを、腐った木やら汚れきった断熱材を取り除いて、嫌な臭いのしないガランとした部屋にしておきたいだけなのに、思いついてからもう何ヶ月経つんだろう。本当に進まない。一緒に作業してやろうという人もない。当たり前か。
親の状態があんまりよくなさそうに思うのはかなりストレスになっている。今晩、父親は夕食を食べなかった。そんなことがとても気にかかって自分が食べるものもあんまり美味しく感じない。母親はデイサービスに行かない日はほとんどベッドで横になっている。今日はご飯を炊くのを頼んだのとそれにお寿司の元を混ぜておいて欲しいと言ったら、買い物と犬の散歩に出ている間になんとかそれはやってくれていた。・・・けれど父親の元気が夕方から急になくなる。また病院に走らないといけないか、あるいは救急車かと、ハラハラする。
救急車は「サイレンを鳴らさないで来てくれ」と頼むとそうしてもらえるとケアマネさんから聞いた。それを呼びづらいうちとしては「いい事を聞いた」と思うものの、果たして、そんなことが「いい事」だと思う現状がとても嫌だ。
親の診療所通いは別々の先生だと面倒なのと、母親の担当してくださる先生の方が診察が丁寧なので父親も母親の日と同じにしてもらう事にこのあいだからしてもらっている。しかしそれでもまた気が重くなっている。先生はなるべくいい方にものを言ってくださっているのがわかるのだけれど、実情は厳しいということは知っているので。これが大病院の先生だと表現はもっと露骨になる。
この間は母親のサポーターを装着してもらうために指定された日に整形の病院へ連れて行ったら、院長もしている担当医から「業者のいないこの日にどうして来た?」と乱暴な言い方をされたので、「今日来てくださいということだったので」と答えたら、「その時に業者が病院にいるかどうか尋ねたか?」と言われて、思わず「そんなことし・・(知るか!)」と言いかけてやっと言葉を飲み込み、「電子カルテもあることですし記録が残っているので(この日を指定されたのかと)」と答えると、「電子カルテは事務員は見れないからなあ」と言われるので、
「そんなこと知ってるわい。事務員さんが権限のある人に適当な日時を指定してもらったものと普通は思うやろ!」と後から考えたものだった(その時にはとっさに言葉が出てこない。)。次第に先生も病院側にも落ち度があったと思われたのか、「それなら業者に家へ行ってもらうわ」ということで話がついた。診察室を出てから僕はかなり不快になり、「どっちが悪いんだ・・」とか色々とブツブツ言っていたので、用事で出てこられてそれを聞いていた看護師さんも含めて、僕の印象は確実に悪くなっているだろう。母親は「あの時はあんたらが何を話していたのかわからへんかった」などという。そういえばサポーター代の請求が全く来ないけれどもう払わなくってもいいんだろうか。
もっと若いと悩みの種類ももう少し「前向きな」それになるのだろうけれど、今の年齢になってみて考えるのは親の介護をどうしよう、医療をどうしようとそんなことばかり。「後ろ向きな」悩みばかり。親不孝な表現だけれど、いわば人生の後始末をいつも考えている感じに、大げさに言えばなっている。それらが「成就」したとしても決して喜びには繋がらないような、そういう悩み。変な表現だけれどいわば「悩み甲斐」がないように思えて仕方ない。