セニアカーが届いたので早速父親に「猛特訓」を開始するべく、まずは道が狭くて車が多い家の近所ではなく借り庭まで自分がそれに乗って行くことになった。とりあえず速度3から走り始めたもののすぐに物足りなくなり車通りの少ないところでは最高速度!の6に。これは普通の人の早歩きくらいになるみたい。自分が使ってみて「ここは危ないな」と思うのは最初に想像していたとおり曲がり道だった。四輪なので内輪差があるとはいうものの速度さえ出していなければハンドルは直角近くまで曲げても後輪は追従してくれる。けれどまず交差している道にちょこっと車の先端を出すところが不安になる。やや首を前に出し左右を見て車が来ないのを確かめておかないとちょっとこわいのだけどモーターが車軸と直結しているので微妙な「アクセル加減」というのがほとんどできず、そういう時にはやや段付き気味に、カックンカックン気味に前進することになる。
もう一つは段差や傾斜のあるところはそれがダイレクトに伝わるので、それもちょっとこわい。あれ、もうちょっとサスペンションに深みがあるといいと思うのだけれど、そういうことをどんどん言い出して実現していくと「バギー」みたいになって電動車椅子扱いにならないんだろうな。
父親が車をやめる時が来るのはいつかあると思っていたけれど、こうして実現してみると最初は自分たちも周りもびっくりする。今日も練習で公園に向かう途中や、その他の場所で、交際範囲の広い父親は何度も車をやめたのか?と尋ねられた。まだ実際には運転ができる父親について考えてみると、今回の選択は本当に正しかったのかなと一瞬考えることもある。ただ、車は一つ間違うと人に甚大な被害を与える「凶器」になる。セニアカーなら自分が被害者になる可能性はあっても人に対する「凶器」としての度合いは少ないだろう。それだけでも甲斐があったのだと思うことにした。今年は元旦から父親が車のキーを落としたり、車から降りてもドアにそれをつけっぱなしにすることが目立って増えてきていたので、それはもう「神様」が「もう車はやめときなはれ」と言っているのだと思うことにした。
だから実際には無理をしてセニアカーを使いまわしてもらう必要もない。だんだんと生活範囲が狭まるのは、高齢になれば当たり前のことだと思う。ただ問題は、父親の場合出かけて人との交際をすることが生きる源になっているところがあるということで、家に引っ込んでしまうようなことになれば「介護保険」の対象にもならないのにせん妄状態が出て家人が困るという現象が出てくることだ。この困り感は経験してみないと多分わからないものだろう。外に出ればその状態が嘘みたいに消えてしまうのだから。しかしそれでは何のために毎月何千円も介護保険料を支払ってきているのかよくわからない。このあたり、世帯、個人の間で不公平が生まれているのは確実だと思うのに、政府からは何の解決策も出てこない。多分そういう人間は早く医療保険に移行すべきだということなのだろう。病院と家との往復で残りの生を全うしてくれということなのだろう。けれどそれでは結局負担が家族に来てしまう。
先月末から今月初めに父親が入院をした際にも自分がどこにいるのかがすぐにわからなくなり、「大切な行事が地元である」と看護師さんや先生に駄々をこねて夜中には「明日にでも迎えに来るように」と、まだその許しも出ていないのに僕に電話をかけてきたりした。次の日行ってみるとどうしても言うことを聞かないので看護師さんが仕方なく、一時的にパジャマを脱がせて平服に着替えさせたりもしてもらっていた。そして本人はとにかく焦っている。そして愛想をつかされて、もとい、なんとか病院から出ることを許されて帰ってくると、今度は家族がこのパターンが出現するのを恐れながら生活することになる。そういう困り方。支援も介護もつかないし、家族としては仕方なく危険だとされる高齢での運転を諦めさせて高いセニアカーを購入することになる。これも本来介護保険ではレンタルの対象になっているものだけれども、それが実現している例はかなり少ないらしい。
すると「息子さんが仕事の代わりに送迎をされたら」というお話も出てくる。これは母親がデイサービスを1日利用するのがしんどいので半日で帰れないか?と尋ねた時にケアマネさんから実際に聞いた言葉。ま、いいっすよ。息子さん、唯一の同居しているその息子さんですから、僕を利用してもらうのも。けれど自分がそんなことをきっちりと出来る状態なら今特に自分についてもそんなに困っていないと思うのだけど。第一、始めた当初は昼までの利用も受け入れていたのでその「余韻」として昼から施設の車で帰している人もあるのに、なんでうちは「息子さん」が自分の車で親を迎えに行かないといけないのか。仕事代わりなら幾らか報酬がなければおかしいのでは?とあとから後から疑問が出てきてその提案はきっぱりとお断りした。
介護保険は「家族の介護に肉親の負担が大きいから社会でそれが必要になった人を支えよう」という趣旨で始まった制度だと思っていたけれど、実際には困った事が出てきても毎月なんかわからん金を出してその見返りは何もない、少なくとも父親にとっては意味のない制度になっている。例えば80歳になったら、制度利用の対象外となっていても月に一度くらいは体の按配を訪ねて頂く程度のことはあって当たり前じゃないかなと思う。
iPhoneが画面を大型化する方向から4インチのまま性能を向上する方向も打ち出して、iPhoneSEが出た。これはアップルとしては正常な進化だと思う。もともとスティーブ・ジョブズはスマートフォンの画面の大型化にはあまり肯定的でなかったらしい。同じく、iPadも、元々の9インチあたりのもの以外に、ミニ版を出すことには否定的だったらしい。ただジョブズ亡き後、それらは実現されてそれなりのヒット商品にもなった。
ジョブズという人はシンプルさと、ミニマムな中に最高の機能を凝縮することが好きな人だったんだろうなと思う。僕はそれをMac本体の結線をする時にいつも感じる。「ああ、ジョブズはこうしてケーブルがこんがらがるのを嫌がったんだな」と。それで、例えばPC本体とモニターをつなぐ時にもミニディスプレイという規格を早々に採用したんだなとか、ついにはデスクトップもモニター一体型を標準にしたんだなとか。キーボードやマウスをワイヤレス化して極力コード類をなくしたんだなとか。
商品の種類を最低限にして、それぞれの機能を深化させていくのが好きな人だったんだろう。自分自身が把握できる範囲で商品開発をして、いつもそれらをどう良くしていくかだけを考える。そういうの、なんとなくわかる気がする。