昨日、朝方までMacの様子を見たりこのブログを書いたりした後、寝ようかと思った時に父親が調子が悪いと部屋までやって来た。一階の壁直しの影響で二階のこの部屋もそこに至る階段も歩きづらい状態なのにそれでも上がってきたのでよっぽどのことだと思ってすぐに病院に行くことにした。
父親の診察は本来は来月始めになっていたところを自分の判断で今週の末にも診てもらえるよう、予約をし直しておいた。そしてつい二日ほど前に念のため本人に「それまででもしんどかったら行くこともできる。どうや?」とも尋ねていたのだけれど、その時には本人は大丈夫だと話していたのでなんとか週末まで行けそうかなと楽観していた。いや、正確に言えば楽観していないから診察日を早めたのだけれど。
とりあえずそのまま入院になった場合にと思ってまず弟に電話をした。ただ弟は仕事があるのであんまり無理も言えない。下着やらパジャマやらを適当に袋に入れて持っていくことにした。
考えてみれば病院まで少し距離があるので救急車を頼んでもよかったのだけれど、うちはそれを呼んだことがない。自動車専用道と高速を使って割と早く着くことはでき、受付で本人の状態を伝えてなるべく早めに予約患者さんの間に「挟んで」もらえないかと頼んだ。そのうち入ったことのない部屋に呼ばれて、リラックスした感じの女性のお医者さんが、当たり前かもしれないけれどそう慌てる風もなく父親にここのところの様子を聞いたり聴診器をあてたりされる。その様子を見て自分も落ち着いてくる。そのうち気づくところを話してレントゲン検査にも早めに回してもらうことができ、結果、入院とならずに今回は済んだ。
父親は若い頃からヘビースモーカーだった。僕らが父親の運転する車に乗ると、ヤニの臭いがうどんのダシ汁(その頃自営でうどん屋をしていた。)の臭いと入り混じって、もともと嫌な臭いには敏感な自分にはとりわけ辛かった。そのために肺もだいぶやられているところがあり、老年になってその影響が出てきている。それなのに「いつも通りに動く」ことが信念のようにして当人の中にはあるので、冷たい空気の中へも出て行って何か作業をしたりしている。時に夜中に犬が騒ぐとそのまま散歩に出たりすることもある。気づく時にはさすがに止めるけれどもこの人のこの「動く」ことに対する異様な執着はどこから来ているんだろうかと思う。
処方されたのがかかりつけ医の近くの薬局でいつも母親がもらっているものと同じだったので、そのままその同じ薬局まで帰ってきて貼り薬をもらい、なんとか家まで帰れた。何も食べないで出たので自分もお腹が空いていたし、母親はデイを休んでそのまま横になっていたので、冷凍うどんを茹でて、ダシを適当に作り、おあげさんを乗せて二人には出した。自分は卵かけ御飯にインスタントの豚汁。父親はだいぶ落ち着いて寝る様子だったのでそのまま自分も夕方まで寝て(今度僕を呼ぶ時には携帯に電話して!と話してから。)、果たして携帯に電話がかかってきたので買い物に出ることなった。あとはいつもと変わらない。ただ、犬の散歩の時、以前は一緒に外へ出ていた父親は少し前から車内で待つようになっている。やっぱりここのところの寒さが体には堪えるのに違いない。
こんな時に限って用事が重なるのはわかっているのだけれど、果たして依頼作業の修正が入ってきて、夜から取り掛かりなんとか再度原稿を見てもらえるよう出力まではできた。幸い画像の修正はなかった。画像は大きさの当たりをつけてもらうためにjpeg画像を適当に引き伸ばしたり縮めたりしていたものを、後で手間がかかるのが嫌なので早めに適正なサイズのフォトショップ形式で作り直しておいたのは正解だった。
それで週末にはまた病院で、今度はいつも診ていただいている先生の判断を仰ぐことになるけれど、ともかく暫くは親の部屋で夜も過ごすべきかと思う。狭い場所にさらに自分の寝場所を作るのも窮屈だし、第一生活時間が親とは違うので最初はなれないだろうけれど、少なくともそこに自分がいるだけでも親の不安は少しは軽くなるかも知れない。自分も夜中に急変されたりして呼び出されるのも嫌だ。どうせならそのまま事に直面して自分がすぐに動けるほうがいい。ちょっと色々部屋のものを動かさないといけないけれど、今夜からは親のいるところで寝られるようにしておこうと思う。
それにしても僕は急な出来事に弱いのだけどな。