「社会復帰」感

ここ数日、夜になにも音を聞かずに寝る「練習」をしています。といっても、ほぼ生活が半日ずれてはいるので、夜に限らず、とにかく寝る前に何かを聞きながら寝る習慣を修正しようかと。これまではYouTubeやnexus5に入れた曲をランダムに流しながらのことが多かった。でも、それはほんとは深い眠りを得ようと思うとよくないのかなと。
その代わり遅くに食事をとるようになった。いや、生活時間のズレを考えると自分にとってはそれが夕食になっているのかも知れないけれど、普通ならその時間にそれはだめだろうという食習慣ができつつある。しかし今はそれも自分に許しているのです。度を超すといけないのだろうけれど。今はあんまり気分が不安定にならないようにしておきたい。

おとつい、天気もよかったし犬が部屋で寂しそうにしていたので、自分は数日家もでないでいることことだしと思って少しだけ散歩に連れて行った。写真は川岸の土手に咲いている彼岸花。先頭の写真は前回も掲載した借り庭の秋海棠。僕はコラージュした写真はあんまり作らないのだけれど(それがいけないと思っているわけじゃないですよ。)、nexus5で撮ると時々Googleさんが勝手にこういう「作品」を作って「どうですか?」って提案してくる。もちろん元の画像はそのまま保存してくれるので問題もないのですが、スマホで撮った写真をクラウドに自動的に無制限で保存してくれるというのは便利です。おかげでこのノートで使う写真も、nexusで撮ったものについてはブラウザからダウンロードしてサイズ加工するだけで使える。
この川は幼い頃からの遊び場で何度も通っているけれど、秋には彼岸花が咲きます。その川も、ここ数年以内には河川改修工事で土手がなくなり、おそらくこのあたりの他の川と同じように単なる水路みたいになるのでしょう。子供の頃、父親の運転するスクーターに乗って、早朝や夜、カブトムシを捕まえに行った樹々が並ぶ川も、今は新興住宅地の真ん中の単なる水路になっています。木など一本も生えていないし草さえもない。それは、人間が水の被害なく生活するには必要な手段なのかも知れないけれど、子供の頃に川に入って小魚取りにわくわくしたり、水に由来する自然の中で虫取りに夢中になったりしたあの楽しみを、今の子供たちはどこで体感するんだろうかと思ったりする。まあ、子供っていうのはどんなに環境が変わってもどこかに秘密の遊び場を見いだすものだとは思っていますけどね。
最近は一眼レフの出番がまったくない。出かけないのだから当たり前なんだけれど。診察に行くのも少ししんどい。電車が苦手なで車を使うのだけれど、渋滞にはまったりしてじっとしているとしんどくなる。この間はそれで診察日を延ばしてもらって時間帯を替えてもらったりしたのだけれど、診察室を出たら仕事帰りなのか自分より若い男性が数人いてこれまでそういう患者さんをあんまり見たことがなかったのでちょっと気が引ける。あの時間帯だったら多分仕事帰りにしか来れない人たちなんだろうなあ、えらいなあ。自分はもう日々の仕事を離れて3年くらいになる。
20代の頃、保健所のデイケアに通っていたときにその世話役をやって下さっていた方から今でも年賀状を受け取るのだけれど、ひとつだけ当時とても気にかかって今でも考えることがあるのは、その方が「別に今、みなさんがここに来て生活ができていくのならそれはそれでいいと思うけれど、そうでないのなら何か(仕事、でしょうね。)をした方がいい」という意味の事を話されていたことについて。
僕はそのお話を聞いて、当時からどこかおかしいのではと思っていました。仕事があって自活できるのに越したことはない。でもそのことと、デイケアに通うこととは切り離しておくべきではないかと。
当人が他の場が必要だと感じたならそこで考えてもらえればありがたい話であって、それとなく郵便局の夜勤バイトの広告を机においておいたりするのはちょっと・・・と思ったものでした。というのも僕はすでにそんなことを経て、その場にたどり着いていたわけで。
もうひとつは、「生活ができていくのなら」そのままでいいという発想の仕方。ここに長い間もやもやとしたものを覚えていた。なら今の日本の2割の富裕層として生まれていたなら、恐らくその条件は楽々クリアできるんじゃないか。でもそうでないなら仕事をしないとだめ、というのはちょっと変な発想に感じる。極端に言えば経済差別にも思える。当時から障害年金をうけずにいた僕をさしての言葉でもあったと今にして思うのですが、では若くして障害年金を受けることが決まったならそのままデイケアやサロンなんかに「たむろ」していてもいいのか。というと、きつい表現になりますが、その職員さんの考え方を自分なりに考えて行くとそうなるんです。間違っているのかも知れないけれど。
その点、やはり当時メインで担当をして下さっていた保健師さんのお話の仕方は少し柔らかかった。「私は「社会復帰」というのは何も仕事に就くことだけじゃないと思っています。皆さんがここ以外に過ごせる場所が見つかった時、それが社会復帰なんじゃないかと。」
これなら「富裕層」も「障害年金層」(このふたつは重なっている場合も多くありますけどね。)も、自分のようにどちらでもない層も、平等に見た言葉になっている。
まあ、そんなことはもういいかな。
ぼくはここ数年は写真を撮ったりそれを見たりするのが好きなので(ここ数年としたのは、飽きっぽいのでこの先も続くかどうか予測がつかないから。)テレビコマーシャルでもカメラのそれにはよく目がいきます。中でもオリンパスのそれは「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」というキーフレーズがよく出来ていると思います。この会社は内視鏡のような医療分野でも実績があるのでこういう言葉を考えたんでしょうけれど。

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