自己中心的に見える気の遣い方

調子の悪い時はかえって文章が書きたくなる。眠りにくくなり、気になることが増える。もっと調子が悪くなるとパソコンを見るのも難儀になる。今はまだ前者でしょうか。発達障害関連のことは別のブログに書くことの方が多くなっています。今は特に厳密に区別をつけようとも思わないし、思ったとしても実行するゆとりもないので、記す場所があちこちにちらばったとしてもそれでいいかと自分を許すことにしています。
今日は珍しく人を招いて実のあるお話をすることができました。僕がいると周りに迷惑だという、こころの底にある思いはまだ普段よりも自分の中で大きく顕在化していますが、せっかく来て下さるのだからとなるべくそれは置いておくことにし、いい出会いの機会となりました。
でも失敗したなと思ったのは、蚊が出ていたので蚊取り線香をせっかく自分で炊いたのに、それを「においがきつすぎる」と自分で勝手に判断して相手の方々の気持ちもあまり汲むこともなく、自分で気を効かせたつもりで部屋の外に出してしまったのと、持ってきて下さっていた飲み物のうち、新しい方を自分が空けてしまい飲んでしまっていたこと。あれは持って帰って頂いたらよかった。
そのふたつのことが後でとても気になりました。
僕の気の遣い方はちょっとおかしなところと、自分中心のところがあるなと感じています。

前の職場にいたときのこと。夕方から講演会があって外から講師の方が来られるのでその方用にペットボトルのお茶を売店で買ってきて下さいと頼まれました。冬のさむい日で、僕は階段を下りて売店に向かう途中に考えました。「こんなさむい日に、お話をされる途中で喉をうるおされるのなら、暖かいお茶の方がいいだろう」と。それで冷たいものよりも少し高い暖かいお茶を買って帰ったら、頼まれた方が「暖かいのを買ったんですか?」と怪訝そうに。そして「じゃあ、これをいますぐ冷蔵庫に入れてきて下さい」と話された。そこで僕は自分が階段を降りる間に気を遣ったつもりで考えたことが実は違うことがわかりました。
話されるのは空調が暖かく効いた部屋なんだし、特に季節は関係なく普通にのみやすい冷たいお茶でよかったのだと。
まあ、その他にも、自分では気を遣ったつもりでもその結果は正反対のものになっていたり、思いが目前のことだけに集中してしまって、結果として自分中心の言動になって現れたりすることがよくあったように思います。そういうのはいちいち後から悔しさになってなかなか心静まらせてくれないのですが、体験の積み重ねから学ぶことの弱い自分というものも感じたりします。ただ、おそらく現実にあたる機会がこれまで少なかったということも、「学習」や「積み重ね」の機会を減らしてきたという部分もあり、仕事上のことであればそれは周りに大きな不利益を及ぼすこともあり得るかも知れないけれど(お茶の件は、幸いそうはなっていなかったようでしたが。)、身近な人の間のことであればむしろ数少ない体験(おおげさな表現のようですが。)として、積み重ねの一助にさせてもらっても、あつかましく考えるとすれば、いいのかも知れない。
話がまったく変わるんですが、僕はiPhone5cをつかっていた時にはそれをiPodがわりとして音楽プレーヤーとしても兼用するという使い方はしていませんでした。せっかく付属していたアップル製のイヤーホンもずっとまっさらのままだったし、iPhone自体の容量も16GBのものだったのでアプリを入れるとあんまり音楽や映像は入らないということもありましたが、一番大きい理由は、まだiPhone4を使っていたときに付属のものではないイヤーホンを使って電車の中で音楽を聴き始めたら、その差し込みが甘くて車内にスピーカーから音が出ていたという経験をしたことがあり、とても恥ずかしい思いをしたんですね。
幸い?そのとき聴こうとしていたのはクラシックだったので、その点は、本当に幸いだったんですが。それからは本体にもスピーカーの付いているスマホではもう音楽を聴くのが怖くなってしまって、それでiPhoneでは曲を聴かなかったんですが、nexus5にしてPlayストアでいくつもあるプレーヤーアプリを見ているうちに一度それらを試してみたくなり、めぼしいのものをダウンロードしてみると、iTunesで取り込んでいた曲もそのまま認識してくれるし、ジャケット写真なんかも曲に付属している情報からネットで探してきて表示してくれたりするのが便利で、あとは出来れば耳の穴に入れ込むタイプ(あの、完全に耳を塞がれる感じが僕は苦手です。)でない、ヘッドホンタイプのものが欲しくなってきました。家の事情もあってなかなか音楽を大きな音で聴くということもしづらいし、この際安いのでもいいのでひとつ手に入れてみようかな。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です