本当に必要な謝罪

なんか最近はnexus5とWindows10のことしか書いていないような気がするのですが、たぶんそうなんじゃないかなと思います。おとつい人から「かずやさんが一番ほっとできる時間はどんな時ですか」と尋ねられて、その時には「今はそんな時間がないです」と答えたんですが、比較的ほっとできる時があるとすると、スマホやパソコンを触ってそれに入れ込んでいる時かもしれない。障害に関わるうっぷんばらし?はブログの方に書いていますかね。
ここのところ夏風邪気味で、今日など部屋の中にいても暑い時もあればエアコンが寒く感じる時もありつけたり切ったり、そんなことを繰り返していました。実際には気温は確実に下がってきているようです。やはりお盆になるともう夏がいってしまうんだなぁという気分になります。
話がまったく変わりますが、安倍首相がどうしても実現したい「安保法制」への反発が市民の間で高まる中、明日は終戦(敗戦)の記念日です。安倍さんとしてはここで靖国神社にもお参りしたかったようですが、今のタイミングでアジア諸国の反発を受けてなお先の法律を国会で強権的に審議していく自信はさすがになかったのか、早々にあきらめたようです。
けれど、彼が本当にあの神社に祀られた人々が大切なんだと思うのなら堂々と参拝したらいいと思うのです。戦後に生まれて、あの「神社」がアジア侵略の精神的支柱として果たした役割を知っている僕は、そこに首相が参拝するのは間違っていると信じて疑わないのですが、彼(安倍氏)にその認識がなく、戦前の教育の通りにあそこに「英霊」があつまっておられるのだ、と本気で思っているのなら堂々と参拝すべきです。
それを今自分が通したい法律の審議に邪魔だからとして行かないということは、これはこの人に信念というものがない証拠であるような気がします。つまり彼にとっては「英霊」も第一でなければ平和も第一ではないのです。安倍首相にとっては自分がこころに描く妄想のような社会の実現こそが第一であり、その象徴が「安保法制」なのは明白です。そして彼のこころに描かれている妄想の姿は、あの侵略戦争以前の日本社会の、彼がよかれと感じている部分です。実際には体験したことはもちろんないので、後に彼が受けた広い意味での教育で、彼が知り得た部分で構成されている戦前の「美しい日本」の姿です。

安倍政権は最初「アベノミクス」を旗印に経済を立て直すとして自民党を政権に復帰させました。それはいいと思います。実際のその経済政策が成功するのかどうかは未知数ですが、とりあえず年金基金まで取り崩し、紙幣を増刷して株式市場に投資した結果、株価は上がって大口投資家である法人や一部の個人にお金は回りました。けれどもそのお金が社会の中で循環して、収入が少ない層や福祉の拡大につかわれているかというと、どうもそうはなっていず、逆に年金は減額されたり介護保険料は上がったりしています。民主党から政権を奪い返したときの公約は「TPP絶対反対」だったものが、今や推進に転じて市民に見えないところでアメリカとの交渉が勝手に進んでいます。
けれど、そこは万歩譲って「大目に見る」としましょう。譲れないのはそうした経済的生活をも突き崩してしまう危機にこの社会を晒すことです。たとえば長く守ってきた武器輸出三原則は安倍政権になって間もなく放棄されました。事実上、この国に利益を与えてくれる相手であればどこでも武器や技術を提供してもよいことになった。これは今回の「安保法制」の論理と似ています。この国が危機に陥ることにつながりかねない紛争に他国が直面したら、そこに自衛隊を送り込むことが出来ることにしようという理屈とそっくりです。
ちょっとまた話が変わるようですが、この間BS FUJIのプライムニュースに小説家の曽野綾子さんと評論家の西尾幹二さんが出演していました。そこで話題になっていたのは「いつまで日本は中国、韓国に謝罪し続けなければいけないのか」というお話でした。要するに何回謝ったって納得しないんだからしょうがないという、どうも頭の良さそうなお二人にしてはどうなのよ?という内容だったのですが、その中で謝罪にも種類があるという話が出てきていました。
一つ目は、言葉でお詫びをするということ、だったかな。ここのところ話題になっている「談話」のような形での言葉でのお詫び。もう一つはお金などで相手に与えた損害を賠償するという謝罪の仕方。そしてもう一つ、形而上的な謝罪というものが、たとえばドイツの哲学者なんかは提唱していると言われるわけです。でも西尾氏はそんな謝罪はやりようがないんだと言う。
そこで僕は思ったのです。「へっ?」と。形而上的、哲学的謝罪こそが謝罪の元になければならないんじゃないの?と。これらはかたちとしては見えないものです。精神といわれるものに通じているのだと思います。けれども一番目のお詫びの言葉が出るにはそれが大元になければいけないと、僕は思うのです。でなければ「悪いことをしたとあなた方がおっしゃるから謝りますね」という、反射的反応としてのお詫びでしかできなくなる。金銭や物で賠償するにしても、やはり大元はこころ、精神でなければならない。
転じて、曽野氏や西尾氏は子どもの「道徳教育」には熱心な方々です。安倍政権はこの「道徳」を正式な教科として教科書づくりもするのだそうですが、お二人にお会いしたらぜひお聞きしたいのは、ではその「道徳」なるものが目指しているのは何かということです。僕からするとそれはまさしく「形而上的な存在、哲学」ではないかと思うのです。目に見えないけれども行動の大元になるこころ、精神を高める教育がお二人が熱心な「道徳教育」ではないかと思うわけですが、今回の番組を見て僕は、「ああ、実はそうではないんだな」とがっかりした。
自分たちが形而上的、哲学的な意味での被害国市民への謝罪の意味がわからないと言われるのであれば、そんな人たちの主張する「道徳教育」など、単に自分たちの考えを子どもに植え付けるための道具でしかないのでしょう。それは戦前の「修身」にも似ているのでしょうが、僕は少し違うように思っています。つまり戦前の「修身」の方が、今、曽野綾子氏や西尾幹二氏が推進しようとしている「道徳教育」よりもより形而上的、哲学的側面を重んじていた面もあったのではないか。このお二人は年齢こそめされているけれども、人としての中身は僕と10歳ほどしか違わない安倍首相と同じ、単に自分たちが空想として描いている戦前の「美しい日本」に酔いしれているだけなのです。
侵略戦争の負けが濃厚になった時点で、本来なら戦後の平和を尊び過去の過ちを忘れない日本社会の、それこそ精神的背景を形作る希望だった学生を最前線に送り込み、その大多数を餓死させるような真似をした形而下の愚かな存在も、この二人にとってみれば正当なのであり、人を本当に救う形而上的、哲学的謝罪などあり得ないというのです。そんな人たちが文化人としてメディアに登場する今の社会、「いったい、どうなっているの?」と考えたものでした。

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