過去と未来の中間の今

2015021601
年が明けてからブログの更新もしていなかった。ホームページの方もそのままで自分でももうどちらもやめてしまおうかと思うこともあった。
この冬は自分にとってこれまでよりも寒く感じ、心身にこたえた。景色を見ても気持ちが動くことが少なく、写真を撮ってもどれもどこか気持ちにしっくりと来ず・・・。今日も調子は相変わらずだったけれど、こちらも年末から調子を落としていて最近になりようやく回復してきた犬の散歩に出たあたりから少し持ち直してきた。小春日和で、犬もいつもより長く歩こうとした。
親の方は、特に母親の方は目に見えて状態がよくないように思う。夜になりごそごそしているので何をしているのかと思ったら飲み過ぎて足りなくなった眠剤の代わりになり得るような薬をこれまでの別の薬の余りの中から探しているというから、とりあえず「最後に残った、指定されている眠剤を飲んで今晩は眠った方がいい」と話した。生活の乱れは僕も人に言えたものではないけれど、母親の世代のそれはより体に負担だろうと思うので、今のデイサービスの利用の仕方を含めて今後の生活リズムの立て直しについて、他の施設利用も含めて「一度担当の介護士さんとお話ししたいことを通いノートに書くよ」と話したら、母親はしぶしぶ?同意した。
今年は気持ちをフラットに保つことを心がけようと思う。

2015021602
毎年、以前商売の品を納めていたお店近くの神社へ初詣に行くことにしている。そしてそこのおみくじを引き、描かれていることがその時の自分の方向だと思うことにしている。今年は怖くてなかなか中身を見れなかったけれども、去年から恒例にすることにしたガールスカウトの団体さんが販売している甘酒を飲みながらゆっくりと引いたおみくじを開いてみたら「平」という、見たことのない文字が目に入ってきた。
個別に書かれていることはなかなか困難そうなことだからあらかじめ予想していた通りという気がしたけれど、とにかく「平」が気になる。これが「吉」よりはよくなさそうな気はするけれど、もしも「大凶」よりわるいのなら相当かなしい。それでiPhoneを取り出して早速それの「等級(?)」を調べてみると、この神社では吉と凶のちょうど間、全体のちょうど中間に位置するものだとわかって、それならなんとなく現状の自分の狭い世界のことを言い当てているなと納得をした。書いてあることがそれぞれに油断をしても心配をし過ぎても仕方がないような感じなのも次第に気に入ってきた。悲しく、混乱していた気持ちがだんだんと落ち着いてくるのを感じた。
たかがおみくじでもあんまりばかにできないものだと思った。
2015021603
去年いっぱいまで、神社を訪れるまで、僕は考えられる限りのことで今の間に手を打てることを必ず先々に考え、決めていかなければいけない。それを親に話し、なるべく早めに答えを出しておかないといけない・・・と、思いつく限りのことはすべて話すようにしていたし、その度に双方に疲れが溜まった。イライラすることも多かった。けれどおみくじの「平」という文字を見ているうちに、どんなにあがいてもなるようにしかならないこともあるのだという気持ちになってきた。あがくことも時に大切だけど、もしそれがもう限界だと感じたら、いったん気持ちを「平」に、フラットにして「一応、言うべきこと、やるべきことはやってきた」と考え、それらをこころの脇に置いて「過去と未来の中間の今」を淡々と、できれば楽しみをもって生きることを大事にしていくことだと思うようになった。
時間が経つほどにそうした「初心」のようなものは褪せていきがちになるし、今はまたこころを乱されることもあるのだけれど、おみくじが教えてくれたその基本の行き方は覚えておきたいと思っている。
2015021604
これまで僕は、幼い頃からの自分の生き方の拙さを悔い、それを責めたりカバーしてくれなかった周囲の人たちをうらみにも思い、それら事実の積み重なりをライブラリのようにこころの中で並べ、時々そのうちのどれかを取り出しては自分をあぶって焦がす炎を燃やしていたように思う。僕の過去への執着は、たまたまこんな人間に生まれた経緯の中から出てきているものもあるのだろうけれど、自分にとってわるいと思った記憶が自動的に鮮明に刻まれて、それを何かの拍子にわざわざ取り出しては幾度も参照してしまう障害からくる特性から生まれてきてもいるように思う。
もうひとつの特性は「不安の先取り」だ。まだ起こってもいないことを具体的な光景までこころの中に描いてはそれを恐れる。これもまたかなり具体的に、すでに本になる前の原稿のような形でこころの中に「ライブラリ」として製本され、並ぶ時を待っているかのようだ。過去を悔いて失望し、先を憂いて消沈する、嘆く。
最近ふと「そうすると過去と未来の中間というのは何なんだろう」と思うことがあった。人からみたらアホみたいな話ではあるけれど、それは「今」なんじゃないかと気がついたのはつい最近のこと。誰しもが過去に悔やまれることがあり、先の不安を持っていることは想像がつくけれど、もし僕と違うところがあるとしたら、それは特性上から来る「今を生きていない」という部分じゃないかと思う。さあ、それがどうしたということではあるのだけれど、そんなことさえ、本当に落ち着いてじっくりと考えないと、この歳まで生きてきたのに思いもつかないのだ。