アップルから新しいOS「Yosemite」が発表されたのを機に、デスクトップのマックをいろんな意味でこの際すっきりさせたいと思い、クリーンインストールすることにした。プラセボだとは思うけれども、起動も、起動完了してからの動作も以前よりスムーズになり、見た目も変わってまるで新しい機体に変えたような感じになった。触っているキーボードも眺めているモニターも、そしてもちろん本体も、これまでのものと何も変わらないのに。
一番手こずったのは、いままではVmwareをつかってウィンドウズを仮想化して使っていたのを、これを機会にそれを無償のVirtualboxで実現しようと考えてやってみたことぐらいで、あとはもろもろのソフトのインストールも順調に進み、アップグレード作業は思っていたより楽だった。ウィンドウズだと大幅なアップグレードは高価なOSを購入してからということになるけれど、マックの場合はアップルが新規OSを無償化しているので助かる。
それで母親が入院している間触っていなかった写真管理に使っているソフト、Apertureを開いたとき、先月あたりからiPhoneで撮っていた写真数枚がフォトストリームになかったのでちょっと慌てた。(僕はiPhoneをいったん止めてフューチャーフォンに戻したものの、月額がほぼ同じで済むSIMカードが発売されたのを知って再度iPhoneを使うようになった。iPhoneで写真を撮るとフォトストリームという機能で自動的にそれはマックのApertureに転送される仕組みになっている。)でもそうだった、母親の入院中ソフトを開いていなかったのだからそれが最初ないのも当然だった。しかも再インストールしたあとで設定も初期化されている。それを元に戻したらいちどにその間の写真がソフトに流れ込んできた。
いっとき、母親の状態がよくなくて自分でも何をしたらこの人と自分の安心につながるのかと思って考えたのは、家の周りや畑や庭の様子をiPhoneで撮って見せてやることぐらいだった。父親が植えた綿は夏前に花をつけていたのが本当に綿に化けた。たるのような形でみるみる赤くなっていくほうき草は、やはり今年もそうなっている。
そういえばここのところ一眼レフもコンパクトカメラもどちらも触っていない。本当は先月、まだ母親のことがわからなかったとき、どこか自分がひとりで行ったことのない場所へ、写真を撮りに行くのを名目にして出かけてみようかと思っていた。僕は小さな頃から外の世界に出て行くことが不安で仕方なかったから一人旅などほぼしたことがなかった。今、それをふと思いついてまた実現しなかったら、この先10年ほども経った頃、きっと「ああ、あの時せっかくああ思ったのにその通りしておけばよかったなあ」と後悔するんじゃないかなと考えていた。けれど母の様子をみている間に体も気持ちもつかれて、日も短くなり寂しく感じる時季へと移りつつある。
青色発光ダイオードの実現に貢献した人がノーベル賞をとったとき、「僕は大学までずっと徳島にいて、会社も徳島で、あとになってアメリカに移ってこの賞を頂いた。だからどんな状況にいたとしても、そこでがんばっていれば必ず道が開けてくるものだ」というような(かなり曖昧)ことを話すのをテレビで聴いたときに、それでも人生の起伏や人としての才能には天と地の開きがあるものの、少し救われた気がしたものだった。従兄弟の結婚式で「地元密着型ですか?」と言われた自分がなさけなくなったその感情は今も強くあるけれども、別にあちこち「旅」などしなくても人生の満足を得ている人はいるのだと思ったものだった。けれど、この人のダイオードに代わる目標を、僕はいまだにもてていない。