再び聴覚過敏について

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以前に自分の特性として聴覚過敏があるようだということを記したけれど、あの時は単にパソコンのファンの音が気になるということを書いていただけだった。それぐらいのことは、自室の静かな環境でならたいていの人が気にしていることじゃないかと思う。関係が全くないこともないけれど、障害特性としての内容としてこれひとつだけではあんまりふさわしくなかったかも知れない。それでもう一度、自分が持つこの特性について考えてみることにした。
最近「デジタル耳栓」というものがあることを偶然に知った。そしてその使い勝手をサイトで読んでいる間に、少し値段ははるけれども僕はこれを買おうとすぐに決めた。ここしばらくお金を遣う時には神経質になっているのだけれど、それでもそう決めたのには、もしかすると自分は小さな頃から周囲の不必要な音までもを情報として拾い過ぎていて、その結果疲れを溜めてきた場面が相当あったのではないだろうかと疑っていたから。(僕はヨドバシで買ったけれどもアマゾンでも扱いがあるようで、しかも安い。)

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電池が別売りなのでPanasonicの単4充電池(旧SANYOエネループ)を買い、パッケージを開けて早速人中で試してみると、大きな電器店の人の集まっている場所でも要らない環境音が低減され、耳情報の負担が減る感じがすぐにする。特にそれまでおそらく「仕方がないもの」として自分があつかってきたと思われる低い空調の音なんかがほぼ消える。
その代わり周囲の人の声は必要な程度には聞こえる。大手電気店ではよくその店独自の「テーマ曲」が繰り返し流されていて、あれは僕にはかなり負担だったけれども、それもあまり気にならない程度に抑えられている。もともとイヤホンを耳に付ける行為が苦手な面はあるのだけれど、それよりも不必要な音が入って来にくいことの利点の方が大きい。
その他の「売り」に、iPhoneやiPodで音楽なんかを聞くときにたいていの人が使っている白いコードのイヤホンがうたってあるけれど、それだとたとえば人に何かを話しかけたりするような場合、「なぜこの人は曲を聞きながら話をするのだろう?」と不審に思われる面があるんじゃないかと思う。そういう時はいったん耳から外すようにするなどの配慮はいるかなあと思う。
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それと、これを使いながら人に話しかけると、相手にはその声がふだんよりも小さめに聞こえるらしい。それは多分、自分に聞こえてくる音が低減された分、自分から発する声もそれくらいで十分だろうと思い込むためがあるんじゃないかと思う。もうひとつは自分の出す声が逆に聞き取りづらくなる気がする。例えてみれば水中に潜った時の耳に受ける音。あの感じに近い。
なのでこのデジタル耳栓を使う時は、使用例にもあるけれど、街中やお店、電車内など、自分とは関係のない声や環境音を低減したいとき、あるいは静かな場所なだけになお空調音なんかが気になる場所(図書館など)が適しているよう。
これがいいと思うのは完全に音をシャットダウンすることを目指す耳栓ではなくて、音波の理論を使って過敏になっている聴覚が拾いやすい要らぬ音のみを相当弱めてくれることで、本当に必要な情報音は聞こえる。人と会話することができるし、もし何か周りで気づくべきことが起こってもそれにちゃんと気づくことができる。このことはとても大事なことだと思う。
逆に注意するべきこととして、車や自転車の運転中には使うべきじゃないと思う。僕自身は車内の本来不必要な音(どこかで配線が車体にあたっているような音や、ものが転がる音、その他原因がわかりそうでわからない音)についてかなり神経質で、今使っている古い中古車でも当初から一年間、原因のわからないカタカタ音にいつも悩まされたから、しまいにはドアの内張りまで外して中を調べたりした挙句、ようやく原因を探り当てて対策部品を取り寄せてもらい解決したぐらいなのだけれど、
やはり運転中にこのデジタル耳栓を使うと、安全のために必要な車両周囲の音(他の車が近づいてくるような音とか、その他交通に関わる音)まで低減してしまう(もともと自動車内は窓を閉め切っても必要な音のみ入ってくるよう工夫されている)ので、車で使うのであれば人のそれに載せてもらって自分が運転しない状況でないといけないと思う。安全に係る場合はこれなしで我慢することは必要になる。
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小さな頃から雷や人の大きなくしゃみ、運動会のピストル、それだけではなく、周りから聴こえるいろんな音に驚くことが多かった。特に突然のそれには身体がビクッとなってしばらく動けない感じがあったりした。
ただ、僕はある時からそれを「我慢」することを自然としていたように、今なら思う。そしてそのうち悪い意味でその我慢に慣れてしまったように感じる。
けれど例えば職場での音、特に人の声の入り混じるような場面は自分の直面している物事を進める際に逆によく耳に入ってくる感じがして「うるさい」と思っていたし、作業も効率よく進めることができなかった。人が集まる場では、できれば自分のいる区画だけでも(他の人も含めたその部署だけでも)周囲に区切り(パーテション)のようなものがあればずいぶんいろんなことの効率や疲れ方が違ったんじゃないかと思う。違わなかったかも知れないけれど。
僕の他の「過敏」に、街なかの看板情報や統一されていない建物の並びや色などを目に「うるさい」と感じることがある。これは20歳前後の頃が一番ひどかった。その頃からにぎやかな街になりかけたこのあたりの光景を見る、そのことだけで負担を感じた。あの頃、それと関係あるのかどうかわからないけれど、突然の脱力感におそわれることが割とあった。
もうひとつ、視覚的なもので直接的でわかりやすいものでは、たとえばこの数年で急速に普及したLED電球を眩し過ぎると感じる。最近、家を改装してそれまでの照明がLED電球を使ったものになった時、光量を最小まで落とさないと自分には部屋が明るすぎてつらいことがわかった。車のテールランプも最近はLEDを使っているものが増えて、停車するたび明るすぎて目に光がささってくるようでつらい。(その割に自分のヘッドライトはもっと明るくならないものかと虫のいいことを思ったりしているけれど。)
なので次にメガネを作る時、少し色の付いたものにしようかとも考えたりする。そうすると写真を撮るとき困るかもしれないとも思いながら。
発達のスペクトラムが濃い場合、それが平均的な場合と比べるといろんな部分で感覚が過敏になったり、逆に鈍感になったりする場合があるような気がしている。でももし自分がそういう部分に気づいた時には、何か対策を具体的に考えると、それまで感じていた負担が減って生きるのが少し楽になるということもあるように思う。自分にもおそらくもっと工夫できる部分があるんだろう。これまでそれをしてこなかった分だけ。そしてそれは身体感覚の部分だけではなく、最も困る障害になっている対人関係の取り方について、などでも。