外とつながるDNA

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綿の花なんだそう。これは夏前に撮ったもので、今は花はなくなり代わりに本当に(!)綿を枝先に付けている。外に出ているのが快適で、人と接しているのが好きな父親は、見知らぬ人がそれを珍しそうに眺めるたび声をかけている。
どうして親子でこうも特性が違っているのかと最近特に思う。僕は、父親が日々、まるで勤め人のように決まった時間に起き、犬を連れて散歩をし、朝ごはんを食べたらすぐに外出して植物の様子をみたり人の世話をしたりと、外に出て人と交わることがどうしてそんなにたやすく出来るのかとつい最近になってようやく考えてみた。そして出てきた答えは簡単だった。それは父親にとってはそれが快適な生活スタイルだから。
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こんな簡単なことにどうして今まで気づかなかったんだろうと思うほど、あっけなかった。そうだ、父親にとっては「外の世界」というのは基本的には自分を受け入れ自分も好ましく思える、そういう世界。だからなるべく家にはいたくない。外で自分が手がけた植物の世話をし、犬を連れて出、それらをかまってくれる人との交流を楽しんでいる。むしろ自分から声をかけて、「いいお天気ですな」「かわいいやんか、この人(他家の犬)」「どうぞ写真を撮っていって下さいや(犬や植物のそれが撮りたいなら。)」と、あちらから声掛けされた時ばかりでなく、こちらからもよく声をかけている。今日の夕方の散歩の時もそうだった。
すると相手の方も最初は固くなっているのが次第に打ち解けてくる。知り合いがたくさん出来る。気軽に訪ねてくる人ができる。趣味の郷土史の講師をしてくれと頼まれたり、しまいにはテレビ局が来て庭を撮っていったりする。
以前の先生にときどき言われた。「こちらが緊張していると相手にもそれが伝わるんですよ(そしてそのことが互いの関係をぎこちなくさせて気まずくなったりすることになる)」と。その言葉の内容を、僕はよくわかっているつもりでずっといたし、今もわかっているつもりでいる。ただ、「自然で緊張の少ない自分」というものをどうして維持できるのか、その方法がわからなかったし今もわからない。小さな頃から道ですれ違う人があると見知らぬ人でもどこに目線をやればいいのかわからなかったし、今もわからない。相手が幼児でも同じこと。

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でも、僕は一度相手が自分を受け入れてくれたと思えるときがあれば、その時には緊張がかなり弱まる。むしろ人との関わりは楽しいものとなり、職場であってもたわいない言葉をやりとりすることでそれがむしろ仕事の効率を上げる。たぶん、今の父の見ている世界と僕の見ている世界の様子はほぼ正反対ではないかと想像したりする。でも僕も父と似た世界の見え方のする時だってあるにはあったんだろうし、今後ももしそういう関わりができればまたそういう見え方のする時が来もするのだろうと思う。
ただ、小さな頃からの障害は僕のそんな気軽な人との関わり方を阻害した。僕は父からも、寝たきりに近くなった母からも、実は人との関わりを好む性質を受け継いでいるのだと思う。弟を見ていると、その特性は父親そっくりだ。何もそういう弟や父が苦労なく人との良好な関わりを保っているだとか、好んで誰ともそうしているとは思っていない。けれども基本として外での、自分にとってなるべく良好な環境を作る術に長けている。外に向かって積極的だ。
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僕も本来は外とのつながりを強く望んで、小さな頃から来た。ただ、僕の持つ平均から外れた特性はその希望の邪魔をした。結果、人との間にはまず「緊張」という壁が立つことになった。これは「できれば人と接触をしたくない(その相手が中立的な人でも。)という気持ちが起こり、今、二次障害としてある「対人過緊張」という診断名につながった。あるいはそれを社会参加の側面から見て「社会不安障害」という判断にもつながった。
けれども広汎性発達障害の診断名を得て、それを元に過去を振り返ってみると、「緊張」や「不安」はあっても、僕は決してこの世界とつながっていたくないとは思っていなかったし、今もそうだと感じる。そして自分の中に、社会とつながろうとする父母の「DNA」は依然生きているのだとも思う。ただ、傷つきすぎた。傷つけたこともたくさんあったろうけれど、小さな頃から傷つきすぎてきたことは、よく使われる「ルサンチマン」のようなものを心の中にぐつぐつと醸成してきた。
このまま、それを腐ったものとしてずっと持ち続けることになるのか、逆に何か別の要因が加わることで発酵していき、それも「人生の味」として携えていくものとなるのか、今の自分にはわからない。