自分が発達障害の診断を受けようと考えたきっかけになったのは、以前の職場でまったく自分にとって「中立的」な、たくさんの人の中に入って仕事をすることになった時に、高校に入って一日目で後悔したのと同じような感覚をもった(この中で自分は過ごしていきにくいだろう)ことと、実際にそうなっていったことだった。それで専門外来の診察を受ける気になったわけだけれども、直接的には対人関係の不具合があることは確かだろう。そして今後どんな集団、仕事に就くにしてもこの不具合は僕についてまわるのだろう。
それはそれとしてもう一つ、自分には幼い頃からときどき抱く「強い悲哀感」というものがある。一番始めにそれを感じたと記憶しているのは、5歳頃にあったある具体的な出来事の直後のことなのだけれど、その後もこの感じは僕の中に潜み続けていて、学生時代から今に至るまで不意におそってくることもあれば、具体的なことや今後を予測することをきっかけに感じることもある。(不意におそってくる、と思っていても本当は具体的なことが原因としてあるのかも知れないが。)
「君が教えてくれたこと」のDVDを探していたとき、本棚を見ていたら、診断の後に読もうと思って何冊か買ったもののほったらかしにしていた発達障害関連の本のうち、ニキ・リンコさんの「教えて私の「脳みそ」のかたち」が、派手な色使いの装丁も手伝って目についた。それが気になったので、活字が読めない今だけれどもちょっとだけでものぞいて見ようかと読み始めたらなんとか読み通すことができた。(この本はたぶんニキさんの意向もあって行間が広めで文字の判読がしやすく、また、ページ数の付け方、今どの章を読んでいるのか、誰がこの発言をしたのかなどがわかりやすいように顔のアイコンを付けるなど工夫されている。)
ニキさんはご自分のことをADHDの傾向が強いと思われているようだけれども、実際の診断はアスペルガー症候群とされている方で、これがどうして診断上両立しないのかといえばこのふたつを同時に診断してはいけないという決まりがあるのだそう。(この本の出版年が2002年だし、発達障害の診断基準はまだ他障害と比較して流動的なようなので今はどういう診断になるのかを知らないが。)
ところで、この本の中で自分が抱えている幼い頃からの強い悲哀感に関わっているんじゃないかという記述があったのが興味深かった。それはニキさんが先生に「発達障害が「慢性的な空虚感」を呼ぶ?」と尋ねられているところで、先生の答えとしてはそれについてはどうも否定的で、この空虚感は発達障害の二次的症状というよりは境界性人格障害の特徴として説明をされている。となると自分が幼い頃から抱えている「悲哀感」とはまた違うのかなとも思うのだけれど、成功体験をしても満たされないむなしさ、という点ではなんだか一致しているように感じる。
一歳〜二歳頃の分離不安の問題を乗り越えることができた場合は、日常活動で落ち込んでもそれほどあとを曳くことは少ないと言われます。これに対して、その問題が十分解決されていないため「基本的な安心感」が不十分な人の場合は、日常活動の中から生じる二次的な失敗体験で、容易に強い「落ち込み」にとらわれ、深刻な空虚感にとらわれます。その際に彼らは奈落の底に落ちていきそうな強烈な不安体験と無力感を感じて、身近で自分を愛してくれる人にしがみついてその空虚感を埋めようとしたり、象徴的な意味での充足を求めて過食をしたりすることになります。
これはその章で先生が説明する「見捨てられ抑うつ」のお話。そのもっと後の章でニキさんは「独白」として、「私自身、「見捨てられるのではないか」という不安が全然ない」と記された上で、
それなのに、「自分は存在する意味がない」という空虚感は、いやというほどよくわかる
親に見捨てられるという感じはないけれど(それ以前に親に頼ってなかったから)、でも、「すでに見捨てられてしまった」という感じはものすごく身近なものです。ただ、見捨てられてしまったのは、親にじゃなくて、もっと大きな、何だろう?時間とか、歴史とか、種族とか、神様とか、世界の法則性とか。「すでに見捨てられてしまった」というより、「あらかじめ見捨てられていた」という方が近いんだけど、この感覚とはずっと仲良しでしたよ」
と記されている。その埋め合わせに飲酒や自傷があったことも書かれているけれど、これらは自分に小さな頃からある「強い悲哀感」の感覚にも通じる部分があるような、ないような、そんな気持ちをもつ。