幼い頃の母親の姿で一番印象に残っているのは、住んでいた社宅に通じるゆるい坂道を、買い物袋を抱えながら歩いてのぼって来る場面で、お腹の中にはまだ弟がいた。
保育園に通っていた時、迎えに来る母親と社宅まで歩いて帰っていたが、いつも通る線路沿いの道に入ったところに笹が生えている場所があり、母親はいつもその笹の葉を自分と僕のためにとってくれた。それをつかって二人で「笹の小舟」を作るのだった。僕は不器用だったから、もしかするとだいたい母親に作ってもらっていたのかも知れない。
線路沿いの道が、いつも立ち寄るマーケットへと通じる広めの道と交差するあたりに水路があって、作った小舟はそこで流すのが決まりだった。
もうひとつ決まっていたのは、その広めの道を少し上がったところにあるお寺の前の松の木のたもとで、僕が、当時流行っていた幼児番組に出てくるキャラクターのモノマネを「演じる」ことで、母親が僕のことを必ず褒めてくれるのだった。「うまい、うまい!」と大げさに思えるぐらいに。松を守るために幹の根本にやや土盛りをして周囲を石で囲ってあったが、幼児の僕がその上を「舞台」代わりに使う程度では何も問題はなかった。
そうして同じ道を何度も母親と帰っていると、僕にも「飽き」の来ることがあったのか、線路沿いの道からマーケットへと向かう近道があるらしいとわかった時に、母親に「僕は今日はここを通ってお店に行くから、ママはいっつもと同じように行って。競争や!」と、張り切って全く初めての道を、自分が母親よりずいぶん先にマーケットに到着するのを想像しながら別れて歩き出したことがある。
すると、歩き出してそれほど行かないうちにもう道に迷ってしまい、大きな不安に襲われてすぐに涙が出てきた。
進むことも戻ることも出来ず、そのまま泣いていたら、近くで畑作業をしておられた女性が「僕、どうしたんや。道にまよたんか?(迷ったのか?)」と尋ねて来られたけれど、それにも答えることが出来ないほど僕は悲しく、戸惑っていて、自分が言い出したことについて心の中で何度も後悔していた。
「付いて行ってあげるから、来た道を行ってみ(ごらん)」と言われるので、もう一度線路道まで戻って、結局母親の後を追うようにマーケットの近くまで来たら、「なんや、僕、道わかってるやん」と、その親切な人は引き返して行かれた。「わかってるやん」という言葉が怒られたようにも思えて、お礼を言う事もできず、マーケット横の入口から鮮魚とお肉売り場との間に入ったら、そこには弟を載せた乳母車が置いてあり、それを見た僕に店員さんは、「お母さんな、今、僕が来るのが遅い、言うて探しに行かはったわ。待っとり(待っておきなさい)」と。その時、「ああ、自分はどうしていつも通りにせず、別の道を行こうとしたんだろう」とまた後悔し、寂しく、母親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。