ここのところ両親、とりわけ母親の診療所と病院通いが続いている。寒くなるにつれて横になることが多くなった母は、玄関に行ったりトイレから帰ってくる度に息切れしてしんどそうにすることが目立つようになった。去年、「暖かくなったら外をいっしょに少しでも歩くとリハビリにもなっていいだろう」と、押し車をレンタルすることにしたものの、それもずっと使わないまま今まで来た。先週の通院の帰り、夕方にはまだ少し早い空いたスーパーで、母親がカートを押していっしょに買い物をしてから帰ってきたら、その時は不思議と息切れすることもなく、かえって元気を取り戻した様子にみえた。
今日は離れたところにある公園まで、押し車と犬をクルマに乗せて、母親と出かけてみた。犬は、僕と出かけることよりは母親といっしょにいることに安心するのか、ちょっと離れて歩くと振り向いて母親の方を見る。母親は母親で、植物の知識があるので植えてある樹々や花のことを話す。あんまり外にいて体を冷やしてもいけないので、公園をひとまわりしてから母親だけクルマに戻って、僕は犬をもうしばらく散歩させるものの、犬は早く母親の待っているクルマに戻りたくて仕方がない風をする。ひととおり回ってひもを話したら一目散という言葉どおりに犬はクルマの方へ戻って「早く母親といっしょになりたい」という格好をした。
帰ってから、やはりいつもの息切れもなく、むしろ活気が出ているようにも見えるので、病院でお医者さんの話を聞いて許可が出たら、できるだけ母親を連れて外に出るのがいいんじゃないだろうかと思う。
いつの間にか春が近づいている。ちょっとしんどかったけれど今年になって初めて一眼レフを持ち出してみた。
もう10年以上前になるだろうか。やはり梅を見に行く機会が何度かあった年があったのだけれど、その時にはそれほど梅自体を「きれいだ」と思わなかったような気がする。でも今はすなおにきれいだなあと感じる。年齢を経たからだろうか。
もうひとつ、その頃はこんな僕でも親しみを寄せてくれる人がいて、その人が梅を見るのが好きだというのでいっしょに出かけた、ということもある。けれども僕はその頃、相手の好意を受け入れる資格が自分にはないというきもちが強かった。そして、こんな自分をよく思う人があるはずがないと確信していた。
なので、その人とは何度かいっしょに出かけることがあったけれど、梅を二回くらい見に行った気がするものの、見たはずの梅のことは実はあんまりよく覚えていない。梅は、あの頃のことを僕にぼんやりと想い出させる。
そして梅は、あの人の印象と結びついている。寂しげで、不安定で、心細そうだったけれど、芯の強い人だった。環境に恵まれない様子だったけれど、自分の力でそれを押しのけて、やがてお連れ合いをもたれ、仕事を続けておられた。あれ以来お会いすることもないけれど、お元気で幸せでおられたらいいなあと思う。