
今朝、起きて降りて行ってみると母親が「父親が不機嫌な様子で出て行った」というので、「ここのところいろいろあったし、父親も精神的に追いつめられているところがあるんやろう」と答えた。母親の風邪の様子が心配だったので医者に行くかどうか尋ねると「もうだいぶ治ってきた」という。実際、おとついからゆうべにかけてのしわがれた声はだいぶ普通に、マシになり、咳も出ないようになっていた。それでも一応ご飯を食べてから薬を飲むように言った。「そうするわ」と。

父親の不機嫌の原因は、この間あった出来事で僕が荒れて父親に当たり気味になったのと、ここのところ母親が自分の診察の内容、お医者さんの態度が納得できないという訴えを父や僕に対して何度も繰り返すのと、その母親が風邪をひいて父親のベッドのそばで寝ているものだから「加湿器を置こうか?」などとすすめても、「いいわ」を繰り返すばかりでかたくなな態度が進んでいることなどなどがあるのだろうと思う。

なんだか寒いなと思ったら、その不機嫌になった父親が部屋のエアコンを切って、母への「お情け」に毛布を一枚追加して「寝ていろ」と言って出て行ったかららしかった。ちょっとおかしかったが、建物を改修する前、親の寝る位置はお互い今よりもっと離れていた。
最近、暖房費の節約もあって、自室でなく親の部屋にノートを持ち込んで作業していた際に、母親の無呼吸用のマスクが劣化していて、それにあまり注意を向けていなかったものだから、昼寝をしている時にひどく空気漏れを起こして寝息もすごいことを「発見」し、業者に来てもらって口に当たる部分のパーツを交換してもらったばかりだった。父親は毎晩この音によく耐えていたものだなと思った。僕はその寝息には耐えられなかったから、ヘッドフォンをノートに差して音量を大きくしてPodcastを聴きながらで単純作業にやっとかかれたくらいだった。

それで、どうしたものだろう。とりあえず親のベッドの位置をそれぞれもう少し離した方がいいと思い、これまで病院の複数人用の部屋みたいな並びだったそれの距離を、大きく(といっても限界があるけれども。)とることにした。そして互いのベッドの間に食事をとる机を置いて、カーペット(ではなくて本当はホットカーペットの上敷き)を続けて2枚敷いてほとんど床が見えていなかったのを1枚だけにし、床が少しでも見えるようにして、実際にはそんなに変わらないのだけれど空間にゆとりがあると「錯覚」できたらいいんじゃないかと考えてみた。

ここのところ、自分の生活リズムもまた狂っていて、ずいぶん眠かったけれど、父親がふだんそれだけ感情を表に出すことはあまりないので、自分にも「罪」があると思ってここはがんばって部屋の整理をした。すると、やはり狭い事は狭いけれども、とりあえず今までよりはお互いの距離を空間としても、心持ちの部分でも離すことが出来たように思った。夕食の頃には父の顔色はだいぶよくなっているように、思えた。

うちの犬は掃除機をとても嫌うし、風邪の治りかけている母親のそばでホコリをまき散らすのもいやだったから、物をどけてモップをかけ、集めたホコリをコロコロの粘着式ごみ取りにつけて捨てた。それをしている間も母親はまた診察についての不満を口にするから、ここのところ整形の診察室へはいっしょに入っているものの、体全般を見てもらう診療所へは入りにくい気持ちがあって診察室までいっしょに入らない月が続いたこともあり、「やっぱり自分もいっしょに入って先生の話を聞く」ことを母親に伝えた。でないと、僕自身もなんだか訳がわからず、同じ事をいくつも言われて辟易してしまう。

母親の今を思うときにどうしても介護についての不満がでてくる。月に一度、介護福祉士さんが家を訪れて家族と本人の話を聞きながら当面の計画を立ててもらうことになっていると聞いていたのに、実際は週に一度のデイサービスの場で、母親に対して「今月はここでお話をしてもいいですか?」と言われるから母親はそれに素直に「はい」と答えて母親だけの面談になっていることが圧倒的に多い。
でも本当は、こうして当人が何度も同じ言葉を繰り返したり、さっき尋ねて来た事をまた尋ねてきたりといったことで、僕や父親は辟易している部分もある。なので決まりはある程度柔軟に運用してもらっても構わないとは思うものの、電話ででもいいので家族に対して「ご本人さんとお話をするだけでいですか?」という感じで、お話があってほしいと思ったりする。家族が困る部分があるから介護をお願いしているという部分もあるのだし。

陽がだいぶ傾いてきて、母親の昼寝が終わった頃(といってもまた寝てしまうのだけれど。)、ヒーターの灯油を買いに犬と出ることにした。いつもは昼に帰ってくる父親が今日は帰って来ず、犬があまりに暇そうなのでそうしようと。うちの犬は僕のクルマに乗ると必ずぶるぶる震える。それはたぶん、僕がいっしょの時にはクリニックへ行って注射をされたり、手術を受けたりしたこともあったりして、そんな記憶が彼の中に残っているからかなと思う。父親のクルマにはほぼ毎日乗っていて、その時には買い物と散歩だけだと彼にはわかっているから安心できるんだろうと思う。スタンドで慣れないながら灯油を買い、帰りに国道から川沿いの道路に入って、しばらく犬と歩いた。同じように犬を連れて散歩している人が何人かいた。川面に夕日が反射してきれいだったけれど、犬を連れながらの撮影は無理だと思うのでカメラを出すのは諦めた。

コンパクトカメラで自分がある程度満足できるように写せるためには、「場数」を踏まないとだめだなと思う。この間、ハローワークへ行くついでに、ほとんど人の訪れていなかった植物園の温室で「練習」をしてみた。それでわかったのは、対象にあんまり近づくとオートフォーカスが効かないことや、ファインダーがないので背面の液晶を見て撮ることになるけれども老眼が出て来ているので眼鏡をかけたままだと焦点がどこに当たっているのかわかりづらいという、かなしい現実だった。なので撮る時にはいちいち眼鏡をずらして液晶を凝視することになる。問題は、そうして外へ出て写真を撮れる機会が、本当に出ないと行けない時でしかもちづらいということだ。
そして、依然、自分の中に、ドロドロとした感情、不満や不安が横たわっていて、どこから手をつけていいのやらわからない、ということだ。なのに、いろいろな意味でタイムリミットがどんどん近づいてくるような気がして、いつも、だいたいこころがうつむき加減になる。「ひとつひとつ片付けて行くこと」という言葉もあるけれど、こういう漠然とした言葉が昔から苦手だった。目の前に問題ごとが常に並列に並んでいて、いつも気持ちが落ち着かず、仮にどれかに手をつけても他の何かが気にかかって効率が落ちる。結局、ひとつ手をつけ始めたことが中途半端なかたちで終わったりしてそれがまた気にかかる。そういうことの連続だった。