できることをする

調子のわるい時には自分が少しでも出来たことを思い返すようにしている。
家の玄関の改装がほぼ出来てきたので、今度いよいよ「本丸」にかかる際、そこに置いているものをどけておく事を大工さんにお願いされていたこともあり、元々ほとんどモノを置いてはいなかったけれど、昨日はそれをした。重くて大きなものは父親が借りてきた軽トラックに乗せてよそに運んだ。その後父親と夕方の買い物へ。帰りにいつもの場所で散歩に連れられて車に帰ってきた犬を見たらおなかから足にかけてだいぶ汚れていたので夕食前にシャワーをしてやった。

母親が、デイでの人との関係を難しく感じているところがあるらしく、具体的な事柄で心にひっかかった点をメモしたものを改めて通いノートに「写してほしい」というので言われるとおりに写した(それはだいぶ施設に対して配慮した書き方だった。)。余っている薬があるので昼間、自分でその分量をメモしていたものを念のため僕も確認してみた。母親が体調や処方について気にしていることは、今晩、診察の付き添いの際に主に僕の方で整理して伝えることにした。(でも、今見たらそのメモをどこへやったろう?)
昭和50年、母親の兄、僕にとっての叔父が、今の僕とあまり変わらない年齢で他界した。その時のことを「あの先生でなければ良かった」とたまに母親は悔しそうに話す。当時の医療なら、難しい病状だと標準的治療法もあまり確立できていなかったかも知れないから病院や先生によって対応が大きく違っていた場合は今よりは多かったかも知れないけれど、あまりに言われると「どうしたらあなたの気が済むのだ」と言いたくなる。「そうかそうか」と聴くよりないのかも知れない。