進まない改装

ここ数日、疲れ方が以前より増していて、デスクトップに向かう気になれなかった。ノートブックを開くぐらいは出来るのだけれど、何か書こうとしてもノートブックは容量が少ないから文章に添えたいと思う写真を保存していない。Flickrにつなぐのも面倒くさいのでしばらくこのノートも放置していた。それだと「どこからでも更新できる」というブログのメリットがあんまりないなあと思いながら。
寝る時間が以前より多くなり、宵っ張り過ぎ、の日々が続いている。それでも20代の頃のそれとはかなり違って、あの頃は、ひきこもれば本当に昼夜逆転生活になった。今は一応お昼ぐらいには起きて晩ご飯まではなんとか保つ。けれどもそれからちょっと居眠りして、その後薬を飲んでも真夜中まで起きているというリズムになっている。最近はそれに加えて昼にも少し寝ることがあるから、やっぱり寝ている時間がかなり多い。感じとしては、昼間、何かすることを見つけると、それを果たそうと起きていることができるけれども、それが見つからないかそういう気力がわかなければゴロンと横になってしまう感じ。これでは一向に体力も戻ってこないし、どうもよくない。
家を改装している。それはここ数年で母親の足腰がだいぶ衰えたことと、高齢になった両親が、夏や冬の温度の厳しい時期に、部屋と風呂・トイレ間を長く移動しないでもいいようにということと、母親が自分に似て出ることを嫌い、目標も薄い日々が続くと昼も横になっていることが多いので・・・しかも部屋を真っ暗にして・・・せめて部屋を薄明るくして、あるいは空を眺める程度はできるけれども人の目には触れず、外の気配を感じられる程度の空間が欲しいと思ったことがきっかけだった。

話が変わるようだけれど、若い頃、京都の運送屋さんで働いた後こちらに移ってきた父親は、地元に精神単科病院を作る際に土地の確保やらいろんな申請事やら患者さん「集め」(当時はそれが実態だったらしい。)など、職員として、いわば「何でも屋」のような形の仕事をしていた。僕はその時まだ小学校に上がる前で、社員寮に弟と両親とで暮らしていた。お風呂は薪でわかす方式で長い煙突が立っており、浴槽は、「浴槽」というよりは丸い桶そのものだったけれど、父親と二人でそこにつかることぐらいは出来た。ただ風呂場は部屋とは玄関を挟んでいたので、入る際にはまず裸にしてもらってから体を抱えられて玄関をまたがせてもらう必要があった。小さな家だったけれど台所もあり、2階もあった。
父親の職場に行った憶えはほんの数回程度しかないけれど、ボイラー技士も兼ねていた父と、銀色の、まだ新しいボイラーを見ていたことや、卓球台があったことや、どうしてか父が頭に怪我をしていて、それを看護師さんたちが笑いながら治療していたことなんかが印象に残っている。あとは、やっぱり自分を連れて職場に行ったときのこと、帰りに車がパンクしていたので「歩いて帰ろうか」と父親が僕に向けて話した時の印象が今でもよく残っている。あたりは暗くなりかけており、街頭がぼんやりと灯っている時刻だった。誰でも経験していることだとは思うけれど、いくら年月が経っても、そうして心に残っている親の姿というものは、自分が何歳になっても今とあまり変わっていない。
当時、若いお医者さんの卵である人たちを受け入れると、世間的にも左翼的な改革の機運の高かった頃でもあり、病院の中傷ビラをまかれたり、患者さんの自由をうたわれて勝手にそうされた結果、逆にそのご本人にとって悪い結果になったことなどもあったらしい。
父親は、そうしたことが嫌になったのか、サラリーマン的仕事の仕方よりも自分で何かを生み出して行くことに魅力を覚えていたのか、病院の経営が次第に安定してきた頃合いから今の土地を自分たちの住処として確保し、僕を保育園に預けながら何もなかったここにまず温室と、トイレと風呂の付いた台所兼居間、そしてお菓子屋用のスペースのある建物を建てた。温室ではサボテンを育てていて、一度そこに入った僕はサボテンの鉢の上に倒れて痛い目をした。当時はまだ道路も舗装される前で、車の通りもほとんどなく、近くで住宅地の建設が進んでいた。あとあと母親に聞くと、サボテンの販売の方は、ある晩一度にすべての鉢を盗まれてしまってからあきらめたらしい。

お菓子屋を始めて間もなく、僕らが大きくなるにつれ一間ではやはり手狭なのでミニハウスを増設した。直後に「子供部屋」として、半分両親手作りのコンクリートブロックを重ねた建物をそれにくっつけた。当時、エアコンもないコンクリート製の建物など居心地は良くないに違いなかったはずだけれども、僕は今でもあの建物が懐かしくて愛おしい感じのすることがある。今もあるスチール製の本箱には子供用の文学全集が並べられ、一角に子供机を置いてもらい、二段ベッドの上で寝ていた。その部屋は安い「研究室」みたいな印象で僕の頭の中には残っていて、それは男の子ならたいてい憧れる「秘密基地」のようでもあった。
お菓子屋を始めると今度はすぐにうどん屋も平行して始めた。人を雇わずの商売だったので父が麺を打っては(どうしてかそのあたりはこだわっていた。)母親が注文を聞いてつくる。その合間に出前の電話を聞き、皿洗いを中断して父親がスクーターで出前に出かけるというような仕事風景だった。僕はそうして忙しく動く両親の姿を小さな頃から間近で見ていた。(このことは、それを尊敬するというよりは、あとあと自分にとって「そうまでして育ててくれたのに」という負い目になった。)手伝うといっても、せいぜい割り箸をはし袋に入れる程度のことしかできなかった。不特定にお客さんが出入りし、ミニハウスと、僕ら子供の「研究室」もほぼ寝るだけの部屋になっていたので、朝や夜は営業の終わった店でごはんを食べている時期もあった。特に休みの日も決めず、終業時間も遅めにあいまいだったから、たまにお客さんが入ってきて、僕らがごはんを食べているすぐ横のカウンターで客が商売物を食べているということもあった。
小学校の中学年くらいから、僕は集団の中で過ごすことにはっきりとした違和感を、気持ち悪さを感じるようになり、せっかく近寄ってきてくれる友達を家に呼ぶということも恥ずかしくて出来なかった。特にうちは、他の友達の家のように最初からきちんと計画して建てたような建物でもなく、忙しかった両親は掃除もほぼできなかったので家の中はいつも荒れていた。なぜか、うどん屋をしているということが、どうにも自分として受け入れにくかった。これは職業差別ではなく、そのことでからかわれることも割とあったし、「当事者」として恥ずかしい気持ちがあった。
中学に入ってからしばらくして、耐久性が低くあちこちに痛みが出ていたミニハウスと子供部屋をとりこわし、両親は今の建物を建てた。これも「(他の建物を造った時に余った)材料を使わせてもらえるなら安く出来る」といった、あまり計画性のないもので、けれど両親はそれで納得し、すべての窓を出窓にし、だれもが見れるよう建物に丸時計を取り付けた。出窓にはときどき母親が花を飾り、それを夜は電球で照らしていた。今も一つの窓だけには季節の花を置き、夜は外を照らしている。ただ、どこかのビルを建てた際に使った余った鋼材を使用しているこの建物は、壁の平面であるべき部分に柱がぼこっと飛び出ているし、居間の戸を開けるとかなり急な階段の最下段がそこに飛び出したりしている。
そうして話がやっと現在の改装の話に戻る。こちらへ移った当時に作ってあった風呂やトイレも古くなり不便になったので、僕が高校に上がる頃に辞めたお菓子屋のスペースに新しいトイレと風呂を置いた。するとそこにたどり着くには居間からは段差をいくつか介して行かなければならないことになった。なので今回の改装となっているのだけれど、ちょっとやむを得ない事情が出来て今は工事が中断になっている。工事期間中だけのことだからと、居間と、それから自分の部屋に、邪魔になるものを臨時に置いたのだけれど、これらのおかげで部屋はより狭く、片付かない状態になっている。昨日は起きてから、部屋を「満たしているもの」をとりあえずもう少し整理する方法を考えていた。これから夜にかけて冬用の布団の整理をするかも知れない。それと、今さらながら夏物と冬物とを入れ替えた。といっても服は以前の記事(http://wp.me/s3eiqO-72)で書いたように、夏冬関係なく吊るせるものは吊るしたままにしているので、その位置を入れ替えただけ。Tシャツの類のみケースに入れてあったのを見えるよう棚に置いた。そんなことをしていたらご飯を食べた後も眠いながらまだ何かできるかもという気持ちがわいてきて、ちょうど配布用に町内会長さんから届けられていた市の広報とお知らせを各々の家の郵便受けに入れて回った。夜も9時を過ぎていたので不審な感じだけれど、幸いどこの家も「怪しいぞ」と感じて出て来られることはなかった。
明日は燃えるゴミの日だったと思うので、これを打つ合間に一袋、捨てるためのゴミを集めた。そろそろペットボトルがだいぶ溜まっているけれど、僕は燃えるゴミしか出したことがないから、一度そちらにも「挑戦」しなければと思っている。そして出来たら、長年押し入れを占有しているような不燃物やらの整理が進められたらなあと思っている。