
この間、御所へ行った時に撮った松。「由緒ある」松はこんなに大切にしてもらえるのに、人間の方が大切にされない事がしばしばあるのは昔からのことのようだ、と思う。陸前高田市の「奇跡の一本松」にしても、ぼくはあの姿を人の目に焼き付けておくに留めて、塩分を過剰に吸い込んだ土壌の中、朽ちさせてあげた方がよかったんじゃないか・・・と、「暴論」に近いことを思っている。松も人も、その土地と共に生きてこその存在だったんじゃないか。人がそこに戻れず、生活が営めない土地に、樹脂漬けにしたモニュメントとしての「松」を残しても、それにどれほどの意味があるのか、僕にはよく理解できない。
サイトの作成が進まない。「写真」はぼちぼちとやるとして、「わたし」が進まないのは自分としてももどかしい。以前、「引きこもり」のことを書くと記しておいてなかなか書けないでいた時、「やーいやーい、なんにも書けてないじゃないか」という有り難い(もちろん皮肉!ですから。)コメントを、無記名人から送られたときには、「まあ、確かにそうだな」と思ったものだった。
これは「書かない」んじゃなくて、「書けない」のだ。
だいたい、「特定不能の広汎性」だとか「アスペルガー」だとか「ADHD」だとか、「高機能自閉症」だとか、最近ではそれらを「自閉症スペクトラム」としてひとくくりに、だとか、そんな話はまだ医師や研究者でさえ整理がついていないのに、それを個人が正確に自分に引きつけて表現しようなどと大げさなことを思い始めたら、自然に体はキーボードから遠ざかる。ところがここのところNHKなども含め、メディアが発達障害についての関心を急に深めてきて、その特集を組んだりするものだから、「早く!早く!自分がどの範疇に含まれるのかを正確につかんで社会適応せよ!」と言われているようで、逆に苦しくなる。
また、「どうして自分はこうなのだろう」と悩んで来た人たちが、この概念(と、ここではあえて記します。)のどこかに自分をあてはめようと一生懸命その手の本を読んで勉強したり、当事者会を開いて「問題」を共有し、現実に対処する(主に対人関係ということに、それはなるようだ。)ための「「スキルアップ」を図るということも盛んになってきている。
僕はそれらが悪いことだとは思わないけれど、あまりに「自身の特性の把握とその対処」ばかりに目を向け過ぎると、かえって苦しくなる場合があるような気がする。それに、たとえば僕のように50年近くこの「概念」にまつわる問題と対して来た(はずの)人間なら、小さな頃から数々の失敗をやらかしながら、集団生活になじめず、就学や就職でつまずき、家族や周囲の手助けを得ながらなんとかやってきて、遅まきながらも「失敗からそれなりに学ぶ」ことをしているので、よけいに始末がわるい。これは確かにそう言えると思う。長年かけて修正(そこにはかなりな無理も含まれている場合もある。)してきた部分というのがあるので、「あなたは、障害者には見えない」「辛抱が足らない」「我慢すればどこかでやっていけるはずだ(障害があれば別だけれど。)」に似た言葉に、これまでよく出会ってきた。
自分自身は、障害者であろうとなんであろうと、そんなことはどちらでもいい。ただ、今、深刻に困ったなあと思っているのは、特に年齢を重ねる程に様々な現実の事情も積み重なって、人とのコミュニケーションがもう自分にはとれない、とほぼ信じつつある点だ。袋小路に追いつめられたような感じでいる。
最近ある方からのメールに「Kazuyaさんに今必要なのは、深くて優しい休息のような気がします。」とあるのを見て、それは本当にこころに沁みて有り難かった。そして、そうするにはどうすればいいんだろうと考えた。
話が変わって、病院から帰って来た母親はやっぱり一日の多くをベッドの上で過ごしている。多分、そうなるだろうと予想していたし、しばらくはそれでもいいんじゃないかと思う。ただ、お昼だとか夕方にはご飯の用意をして起きてもらうようにしている。幸いデイサービスとのつながりは切れていないので、自然とそちらには通わせてもらうことになるだろう。
入院している時には、「わたしは早く足を治して草むしりがしたいんや」とよく言っていたし、この週末、病院から帰って来た直後、着替えて庭に出かけようともした。けれどいったんそれを止められると、今度は寝込むようになった。その母親の事情を、今の僕ならよくわかる気がする。草むしりがしたいという気持ちも本当だし、疲れて横になっていたいというのも本当だと思う。